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川島隆(1976- カフカ研究者) プロフィール・業績集(カフカ関係限定)

Werke von Dr. KAWASHIMA TAKASHI(1976-)

川島隆
カワシマ タカシ
滋賀大学経済学部特任講師(2010.2現在)
1976年生。京都大学博士(文学)。
http://jglobal.jst.go.jp/detail.php?JGLOBAL_ID=200901011890975666

ためらいがちのモーセ : カフカの『ジャッカルとアラビア人』とシオニズム参加の問題
Der zogernde Moses in Agypten : Franz Kafkas Parabel Schakale und Araber und die Frage des Zionismus
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006858284

カフカの『田舎医者』とロシア : ツルゲーネフ、東方ユダヤ人、性愛をめぐって (オーストリア文学研究会賞受賞論文)
Turgenev, Ostjudentum, Sexualitat : Franz Kafkas RuBlandbild in der Erzahlung Ein Landarzt
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006858261

ドイツ語圏の黄禍論に表れた「男性の危機」
本文pdf: http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/4_bungaku1/4_10.pdf
書誌情報: http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007343095/jpn

カフカ『流刑地にて』におけるオリエンタリズム幻想
書誌情報: http://opac.ndl.go.jp/recordid/000008501359/jpn
目次: http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000008501359.html

カフカにおける「家族」とユダヤ人問題
『ベンヤミン : 救済とアクチュアリティ』(180-183頁)所収。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000008220618/jpn

京都大学文学部・文学研究科ドイツ語学ドイツ文学研究室(Germanistisches Seminar
Universität Kyoto)『研究報告』掲載分
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/dokubun/publications.html
■第22号(2008)書評Bettina von Jagow und Oliver Jahraus (Hg.): Kafka-Handbuch. Leben – Werk – Wirkung
■第20号(2006)書評 M. Engel und D. Lamping (Hrsg.): Franz Kafka und die Weltliteratur
■第18号(2004)論文『万里の長城』における「男性」と「労働」の位置――カフカのシオニズム理解を手がかりに
■第17号(2003)論文ユダヤ人と中国人―カフカにおける人種と性愛をめぐって
■第16号(2002)論文カフカの息子たち――短篇「十一人の息子」読解

京都大学大学院文学研究科学位取得論文 「カフカ文学の中国・中国人像」(平成17年3月23日)
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007802313/jpn
→『カフカの〈中国〉と同時代言説 黄禍・ユダヤ人・男性同盟 』
として単行本化。詳細はこちら
http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-24


以下、21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」ニューズレターNo.2(2003年3月31日発行)からの転載
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/glomus/news02.html
 19世紀末から20世紀初頭は、ヨーロッパにおいて東洋の文学・思想受容の気運が高まった時期である。かつての儒教に かわって道教(老荘思想)が中国思想の代表と目され、広く支持を受けた。その背景には、時代を覆っていた新ロマン主義的な空気が ある。老荘思想は、その文明批判的思潮の受け皿として機能したのである。また、李白・杜甫らの漢詩が翻訳紹介されて詩壇の人気を 集め、中国人になりかわって「中国詩」を詠むことが流行したという。
   ハンス・ハイルマン編訳の中国詩アンソロジー(1905)などを通じて中国文学に親しんでいたカフカは、自ら数回にわたって 中国人の像を描いた。初期の断片『ある戦いの記録』初稿に見られる、(ハイルマンが紹介する李「太白」をモデルにしたとされる) コミカルな「太った男」が、その最も早い例である。後のフェリーツェ・バウアーとの文通の中で、清代の詩人・袁子才(袁枚)の 詩句から得た「中国人学者」のイメージを、カフカは一種の自画像として磨き上げてゆく。すなわち、孤独な営みである文学活動と、 他者との共同生活のあいだで揺れる人物像として。そして一度は破綻したフェリーツェとの関係が修復された1916年から翌年にかけて、 カフカは精力的に作品を執筆したが、そのころ書かれた掌篇(「八折り版ノートB」収録)に再び「中国人学者」が登場する。 ここでカフカは、フェリーツェへの手紙に触発されて生まれた初期代表作『判決』(1912)のパースペクティヴを反転させ、 今度は「父親」の側から同じ「父と子の物語」を語ってみせた。その結末では、「息子」の無抵抗主義により、父子の対立が融和へと 至るかのようである。
   この掌篇と同時期の作『万里の長城建設』の中国像は、時代状況を色濃く反映したものとなっている。中国文化の紹介者としても 先駆的業績を残しているマルティン・ブーバーは、「文化シオニズム」の理論的指導者としてカフカの周囲のユダヤ人社会に多大な 影響力をふるった。「個人」と「民族」、ひいては全「人類」の統一を謳い、その構成単位となるべき宗教的な共同体を建設することを 説いた点が、その民族思想の特徴であった。その際、一個人と民族全体とを仲介する理想的伝達形式を「荘子」の文学性に見た ブーバーの中国思想解釈は、彼の初期神秘思想と民族主義とを接続する役割を果たしている。さらに、「東洋的土壌から引き離された 結果『遊牧民』と化した東洋人」としてユダヤ人を位置づけることで、ブーバーは「中国」という伝統的トポスに(ユダヤ人にとっての) 新たな含意を付与したのだった。カフカの描いた「長城」の「分割工事」や「遊牧民に対する防衛」、「新しいバベルの塔」などの モチーフは、このブーバーの民族思想を形象化して批判的応答を形作るものである。
   西洋人として「中国人になる」ことの困難を述べたヘルマン・ヘッセとは対照的に、カフカは自ら「中国人」と名乗っている。 その感情移入は、ベンヤミンやカネッティをして「カフカの中国性」を論じさせた。しかし、カフカの慎重な態度が、同時代人の熱狂とは 著しく隔たっている事実を見逃してはならない。カフカが短篇『十一人の息子』(1917)で描いた「老子」の戯画は、以上で概観したような 中国・中国人への関心を自己総括したものである。同時にその言葉は、文化的他者を前にして、人種的偏見にも、その裏返しである理想化にも 埋没しない中立を貫いた例として評価されるだろう。

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