SSブログ

『グーテンベルクからグーグルへ』書評 高野佳代 2010.3.25 [本の紹介]

本に関する詳細はこちら
http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-20
http://www.kanzaki.com/book/g2g/

『グーテンベルクからグーグルへ』書評 高野佳代 2010.3.25

 『グーテンベルクからグーグルへ』という、なにか壮大な変革がおこわなわれていることを想起させるタイトル、「デジタルの『本』の氾濫は、文学研究の制度、ひいては、人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける。」という帯のフレーズ、グーテンベルク聖書を高細密にデジタル化し(http://www.humi.keio.ac.jp/treasures/incunabula/B42-web/b42/html/index_jp01.html)、グーグルブックへの参加も日本でいち早く表明した(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070706/276938/)慶応大学の出版会の出版物、意味ありげな絵柄が配された白いハードカバー、そういったものから、本書は紙の本をデジタル化する事業が話題に上らない日はない今日のために、とても決定的なことを述べていると期待する人が多いと思う。だが、その期待は裏切られると先に申し上げたい。本書は、いわゆる「文学作品」の「学術研究」のために使うことが出来る「学術編集版テキスト」を編集する専門家が、その仕事の紹介をし、意義を理解されたいと求めるささやかな本であり、日本で言えば、講談社メチエくらいのソフトカバーの装丁が適切な、軽めの本である。全体が緊密に構成された1冊の本というよりは、どの章からも読み切り可能な寄せ集めのエッセイ集である。特に、「文学の学術研究」に耐える「版」とはどのようなものかを説く前半と、そのような「学術版」の限界を説く後半のトーンの違いには、著者の認識が時を経て変遷したことも考えられるため、あまり細部にこだわらずに全体をさっと読み流す方が良いと思われる。

また、日本語訳は決してこなれたものとはいえず、訳をみるだけでは何を言っているのかさっぱりわからないところ、訳注がもっと親切にあってほしいところなどがある。そのため訳者の一人、明星氏が目指したであろう「日本人のための編集文献学入門書」の役割もやや果たしにくいものになってしまっているのは残念である。もっとも、日本にこの分野の訳書がまったくないといってもいい状況の中で、「編集文献学」という訳語を創出するところから始めなければいけなかったという労力は多としたい。

 電子テキストの氾濫、というのは、この本によれば、誰がどのような方針で編んだかもわからないペーパーバック版が、ただ入手が容易であるという理由で大量に出回り、正確を期して専門家が編集に努めた学術版が存在するにもかかわらず、ペーパーバックに基づいてシェークスピアを論じる人がいる(著者によれば、ペーパーバック版では当時のシェークスピアについて理解を深めることはまったく不可能だという)、という問題とほぼ同じことであり、学術版編集者の仕事がいかに世の中に求められず、理解されず、役に立っていないかという嘆きが本書後半からは伝わってくる。つまり、著者が言いたいことは、学術編集版の価値を知って、適切に利用しましょう、編集とは、何らかの目的のために、何らかの基準や方針に基づいて「オリジナル原稿」を加工するということであり、そのことをよく理解して「編集された物」は使いましょう、ということであり、ごく基本的なリテラシーを再確認しているにすぎない。

たとえば、「大江健三郎の短篇が、1996年刊の自選集に収められたときに、地の文および登場人物の台詞における〈トルコ〉〈トルコ風呂〉などの表現が、当時存在しなかった〈ソープ〉という表現に変えられた」という事実がある。トルコ風呂、という言葉はあまり用いてはいけない言葉になったから、新たに印刷して出版する場合はその言葉を避けた、という判断は、完全に非難されるというたぐいの物ではないだろう。だが、その「編集」操作を知らず、ある研究者が「大江健三郎は執筆当時から、トルコ風呂という単語の使用を避けており、トルコ国民に対する侮辱の可能性を視野に入れていたのは誠に慧眼だ」という論文を書いたとしよう。そんな「解釈」は笑止千万で、プロの研究者ならばありえないことだと思われるかもしれないが、原理的にはこれと似たような「文学研究」がたくさん行われている。そこで著者は、読者、研究者、テキストの利用者にはテキストには何らかの編集が行われていることを自覚するよう促し、編集者に対しては編集の痕跡を明示し、なぜそのような操作を行ったかを明記し、次代の編集者・研究者の批判的検討に耐えうる「版」を作るよう要請する。

この主張はごく当たり前のことのように思えるが、実際には編集専門家のあいだでも共有されているとは言い難い認識らしい。この道30年の著者ですら、自身が編集したサッカレーの学術版を、自身が委員長を務めたこともあるMLA編集文献学委員会に学術版と認定されなかったという(!)。もっともその理由は、相手の委員長が、手稿版ではなく公刊された板を編集の底本とするのが良いと考えていたのに対し、著者は手稿を尊重する編集方針を採ったからではないかと書かれているのだが・・。

手稿こそが「オリジナル」なのか、作家が出版に当たって校正を重ねて「これで世の中に出して良し」とした版を「オリジナル」とするのか。そのどちらも妥当性を含んでいるし、著者の言うとおり、どんな編集方針もなにがしかの欠損と欠点を含む。だから「完全無比で今後いっさい再編集する必要はない」という学術版を編むことは出来ないし、すべての「ヴァリアント(異稿)」を平等に見せ、それぞれの異同や生成の来歴を事細かに注記した電子テキストが、日々更新されていくことこそが望ましい最良の解決策であるというのが著者の主張である。

そのための具体的な技術(TEIとXMLを使うこと等々)、予算の確保方法、編集者が最低限従うべきMLAガイドラインなども本書に提示されている。紙媒体で出版するしか方法がなかった時代には達成できなかった、そのような異稿や注記の見せ方を可能にするのが電子テキストであり、電子テキストこそが現在の学術編集版の唯一の解決法であると書かれている。他方、「どうでもいい」と著者には思えるような些細な改変を記録した異稿まですべて盛り込んで、「中立、公正、客観的」であろうと努める編集者の努力は、利用者を無用に迷わせるものであり、むしろ、明快に編集方針を貫いて、適宜読みやすい形・分量にするのも学術版編集者の望ましい姿であるとも書かれている。

手稿にも印刷板にもそれぞれの価値があるという考え方、さまざまな編集方針による学術版の乱立も、それぞれが批判に耐える物である限り許容されるという考え方も、電子テキストこそが唯一の解決策だという結論も、まさに現時点の批判理論・文学研究・デジタル化技術の限界の中の産物であり、著者もそのことを認識している。だが、ところどころ、「作家がテクストに関して下した判断こそがもっとも考慮されるべきものである」という信念や、「紙媒体ではもはや用は足せない」という思い込みが見え隠れしているようにも思える。評者が一点非常に疑問に思ったのは、日々更新される電子テキストが、紙の学術批判版同様に研究ツールとして学術研究に耐えるかということである。もし、良心的な研究者が協働作業によって日進月歩の研究成果を盛り込んで、適切に「学術編集版電子テキスト」上で編集し続けたとして、それは、学術研究者たちの共同のテキストとなり得るだろうか?紙のテキストであれば、何年何月発行本の何ページと指定すれば後年の研究者ともずっと研究成果を共有することが可能であるが、日々更新される電子テキストは、そのような用には耐えない。(もちろんアーカイブ機能はついているかもしれないが、Aさんが何月何日何時何分に見たテキスト、というものを、注などのアプリケーション動作も含めてすべて完全に再現することはかなり難しいと思われる)。同時代の研究者とさえも
「同じ」デジタル・テキストを介して各自の解釈を提示し、交換し、深めていく作業は不可能だろう。「同一性の保持」「後世の参照可能性」という点で紙の本はまだ電子テキストより優れている。(もちろん著者も、紙の方が保存性に優れていることは認識している)

(注 3/26の国際会議の会場にて、隣に座っていたのが著者だったので、直接この疑問をぶつけてみた。「初めまして。私は国会図書館の司書です。御本を読ませていただき、1点質問があります。あなたは、日々更新され続けるナリッジサイトという電子テキストアーカイブを学術編集版として用いるべきだと言っていますが、動的なプログラムは保存やアーカイブが困難で、同時代や後世の学者が紙媒体のように『同じ一つのテキスト』を共有して研究することは困難なのではないでしょうか?」「ナリッジサイトは、一つ一つのバージョンの異なるテキストをすべて保管しているアーカイブで、個々のテクストはFRBRでいうところのitemに当たるから、DOI(http://en.wikipedia.org/wiki/Digital_object_identifier)で全部管理されているよ。紙の方がスタビリティがある、という君の観念は間違っているよ。これで適切な答えになったかな?僕にも一つ質問したいことがある。君は明星さんが書いた5ページほどの巻末エッセイを読んだかい?何が書いてあった?ヘルプフルなイントロダクションになっていたかい?」「え?あなたは何が書かれているか知らないんですか?直接彼女に聞いて下さいよぉ・・」「彼女は教えてくれないし、訳してもくれないんだ」「イントロダクションではなく、彼女の独自の意見が述べられていました。彼女は日本の学者が編集文献学の理論や、理論的思考に興味を示さないことを残念に思っています」「それは興味深い!どうして日本の学者はそういう態度なんだい?文化的なもの?彼らはまったく必要ないと思っているのかい?」「日本で編集を担っているのは、学者ではなく、出版ビジネスのなかで生きる職人さんたちだから・・・」ここで私の英語に愛想が尽きたのか、彼は「やっぱり彼女に尋ねるべきだよね」と席を立ちました。終わり)(日本語訳は、高野の理解の範囲内のものであって、原文とはおよそ異なるでしょう)

また、デジタル化に費やされた研究者の労力を、紙と鉛筆しかなかった時代の研究者はすべて紙の本を読み、思索を深めることに用いているとすれば、「文学研究」は果たして進化しているのか停滞しているのか・・・。白氏文集と源氏物語のすべてを頭に入れて読むしかなかった国文学の読者と、それらの注は随時パソコン画面上で参照すれば済むと思っている現代の利用者は、どちらが「望ましい読者」か・・・。

ほかにもいくつか、著者がまったく疑っていない事柄について、疑念を呈したい。著者が自身の経験から、後進が同じ苦労をしないようにと勧めている、デジタルテキスト作成・維持管理の技術についても、現在想定されている編集作業とは全く違うパラダイムに則って作業される「新しい編集」がもしあるとしたら、そのときは必ず技術革新を伴っていると想定される。つまり、著者は、複数の編集者による共同作業を念頭に置いているが、それは、コンピュータネットワークを介して、複数人が一つのファイルにアクセスし、編集作業をできるようになったというハード面での条件に基づいているように思われる。Google社やツイッターに代表されるように、誰も体験したことのない、想像すらしていないかもしれない革新的なツールを生み出す組織が現にあって、人々の生活様式を変え続けている現状をかんがみれば、「学術編集版はこのようなものであってほしい、あったらいいな」という想像の幅もきっと広がって、今は想像できないような技術を使って編集作業が行われるかもしれない。「さまざまな編集方針がありえる」という想定と、「普遍的な、最適解の編集ツールがありえる」という想定は矛盾しているようにも感じるのだが、どうだろうか・・。

そして、より大きな前提として、著者は、「文学の学術的研究」の価値やその業界の存在をまったく疑っていない。これはある意味、驚異的なことで、だから出版者がつけた誇大広告フレーズ「デジタルの『本』の氾濫は、文学研究の制度、ひいては人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける」は、本の紹介としてはまったく当たってない。確かにさまざまなツールで編集ができるようになり、ひとつの「作品」について、その「テキスト」は複数あるのだ、ということが世の中に広く知られるようになることは、よりいっそう「権威ある編集」の存在価値を高めるかもしれないし、その必要性が認知されることにつながるかもしれない。けれども、私は大衆のために書かれた小説というメディアを「研究」する態度として「学術的」なものが唯一の制度とは思わない。学術的ではない研究、というと撞着語法のようだが、ある作品のより「おもしろい」(意義深い)解釈を提示すること、作家と作品の理解を深めることを「研究」というならば、それは必ず「アカデミックサークル」内の「学術編集版に基づくこと」という了解事項に同意していなくてもいいように思うが、どうだろうか?

そもそも「学術編集版」って何なの?複数の「版」が存在することが、ある「文学研究」にどのような問題を引き起こすの?と思われる方は、ぜひサンプルとして『新しいカフカ』という明星聖子氏の、カフカ研究における「批判版」との格闘をご覧いただきたい。カフカ研究史においては、カフカの生涯の親友マックス・ブロートが、カフカの遺稿を独占し、独断と偏見によって『カフカ全集』を編んだために、長年研究者たちは、カフカの手稿、草稿、学術的批判検討を経た学術編集版を入手することが出来なかったという事情がある。明星氏がカフカ研究に着手した頃には、ブロート版を過去の物にするような、新しい「批判版」が準備されつつあった(2010年3月25日現在も批判版の完成は待たれているところである)が、その「批判版」の編集方針にも重大な欠陥があると気づいた明星氏はそこから研究を始められた。

確かに、そういった事情を無視して、批判版を盲目的に信用して「カフカ研究」を行うのは、先に挙げた大江作品の例のように、笑止千万な成果しか生まないかもしれない。だが、ブロート版しかなかった時代にも、現在も通用するような、現在の研究者にも超えられないような水準の「研究成果」、カフカ論というのは生まれていたということもまた指摘しておきたい。それは大学教授が学会で発表したアカデミックなものに限らず、在野の批評家の手になるものも含まれる。著者は決して、学術編集版に基づかない作品解釈を排除しているわけではなく、そういうものもありえる、という立場を採っているが、それでも大学教授という職業の性なのか、「不勉強な読者」を嘆き、貶める口調もないわけではない。だが、著者が「素人」相手の授業のために用意するようなテクスト、劇場公開された映画がDVD化されるときに付録としてつく「メイキングの特典映像」のようなものが、「文学研究」をよりいっそう充実させる可能性もないわけではないのだ。原書の副題である「electronic representations of literary texts」(文学テキストの電子的再現)は、非常に手間暇のかかるものであるのだから、想像以上の成果を生むことを祈念してやまない。

共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。