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川島隆著『カフカの〈中国〉と同時代言説――黄禍・ユダヤ人・男性同盟』彩流社(2010)書評 高野佳代(2010.4.7) [本の紹介]

川島隆著『カフカの〈中国〉と同時代言説――黄禍・ユダヤ人・男性同盟』彩流社(2010)書評 高野佳代(2010.4.7)

本の紹介はこちら
http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-24

 「カフカの〈中国〉」と聞いて、『万里の長城が築かれたとき』といった作品タイトルを思い浮かべる人も中にはいるかもしれないが、戸惑う人は多いだろう。本書は「万里の長城」以外にもカフカの書簡に表れた「中国人学者」のモチーフや『11人の息子』のなかの中国人の身振りなど、あるいは『ある流刑地にて』や『ある闘いの記録』など、一読しても中国モチーフとは気づかない作品までを幅広く扱っている。それならば、「カフカの〈中国〉」は「カフカの中国・中国人モチーフ」でもいいはずだが、そうとは記されていないのは、同時代の言説空間のなかでカフカが摂取し、構築した「中国」とはなんだったか、を主題としているという意味である。カフカと現実の中国との具体的交渉ではなく、愛読した漢詩集や黄禍論、東洋思想の流行を通じていかにカフカが中国に思い入れ、自己の問題を仮託していたかを本書は論じている。カフカが直面したユダヤ人差別の言説もまた、西洋白人男性とは異なって「肌の黄色い」「東洋的な」人種としてユダヤ人を語っており、本書はカフカ論の中でも「カフカのユダヤ人問題」を扱ったものと分類される。そういった民族アイデンティティは、不可分に「ジェンダー、セクシュアルポリティクス」と絡み合っているものであるが、なかでも、ホモソーシャル、女性嫌悪(ミソジニー)、男同士の絆といった側面がカフカの文学という営みを規定しているというのが本書の主張である。従来、カフカが「市民生活と文学(創作活動)」の相容れなさに悩み、「結婚ができない、父親になれない、だが孤独を追求もしきれない」状況を作品に描いてきたことは指摘されているが、著者は改めてカフカにとって文学とは何だったのか、恋人フェリーツェとの関係は何だったのかについて新しい解釈を提示している。
 本書の最大の美点は、最新の研究状況を反映した学術論文であるということである。日本におけるカフカ論は、先行研究を明らかにせず、著者の思い込みを綴ったエッセイが多く、たとえ学術論文の形式を採っていても独断と偏見に満ちたカフカ像の提示に終わっていることが多い。だが本書は、汗牛充棟の先行研究を見事に整理し、これまでの議論に欠けている点を的確に指摘し、新たな論拠に基づいて説得力ある説を展開している。主観的エッセイストが他人のカフカ解釈を一切認めないのに対し、著者のカフカ論は非常にフェアで、本書に対する反論があっても受け入れられるし、別のカフカ観をぶつけて議論することもできる。エッセイは自由で、学術論文は窮屈だと通常は思われるかもしれないが、ことカフカ研究に関しては、あるいは異なったカフカ解釈をもちよって議論するためには、このようなフェアな形式の方が、実は自由な世界を拓くのである。
 これからもまた、カフカが大好きで、我こそはカフカを深く理解しており、この世に二つと無い独創的な読み方が提示できると意気込んで「カフカ論文」を書く人は出てくるだろうが、その人は本書から、「あなたはなぜそのように徒手空拳で書き始めるのか」と問われるだろうし、それに答える責務がある。カフカの高度に抽象化された文学作品もまた、現実世界との接点があることを示し、カフカが生きた言説空間を知ることがこれほどまでにカフカ解釈を充実させることを証明した本書は、「なぜあなたは時代の文脈と制約を無視してカフカを読めるのか」と後続の研究者に問いかけてくるのである。
 これまで積み重ねられてきた「時代を超越し、常に現代においてアクチュアルな意味を持つ作家カフカ」という偶像崇拝は本書では厳しく批判されており、その意味でも本書は信頼できる。そうしたカフカ崇拝が高まるさなか、慧眼にもマルト・ロベールは『カフカ』(1960、邦訳:晶文社1969)のなかで、カフカの文学技法のひとつを「ほのめかし」であると説いたが、本書はその「ほのめかし」の内容を精査したものであるといえる。カフカが実は驚くほどに同時代人をこき下ろして自由闊達に態度表明をしていることを著者は具体的に明らかにしており、新たなカフカの一面が垣間見れて大いに驚かれるかもしれない。そのため、本書はお堅い研究論文ではあるが、一般のカフカ愛読者にもぜひ手にとって一読されたい面白い読み物でもある。小さな判型の本ながら、人名と事項に分けた二つの詳細な索引がついていることは、日本の学術書には珍しいことであり、自身の関心に合わせてピンポイントで本書を参照するのに便利である。また、モノクロながら図版も10点ほど収められており、当時のドイツ語圏に流通していた中国イメージがいかに偏見に満ちたものであるかが一目でわかるというだけでも、本書を手にとってパラリとめくってみる価値はある。

 内容については、正直にいって、2001年の3月、修士課程を修了した時から、本書が完成する2010年3月までずっと、ここに収められたすべての文章について、何回も読んでコメントし続けてきているので、フェアな判定ができる自信はない。今までバラバラに順不同に読んできた各章を、初めて著者の考える、統一の取れた順序で通読したことは、本という形がもたらす最高の愉悦であった。(初出タイトルと発表媒体についての記載が抜けているのは残念である。そのような情報は著者の関心がどのように移り、深化していったかを知る手がかりとなるので。)著者の文章は、格調が高く、時に難しいが、改めて縦に組まれた状態で読むと、彼なりには初学者にも易しくわかりやすく書こうとはしていたんだ、ということに気づいた。だが、それは何十回も本書に収められた論考を読んで内容を知っている評者の感想であり、それが初読者にも通じるかどうかは、広くご意見を頂戴したいところである。膨大なカフカ先行研究に目を通し、その議論を整理するだけでも特別の能力であり、常人は、収集するだけで力尽きるか、整理できず途方に暮れてしまうかどちらかである。そういった「高度な文献操作」についていけず、もう少し字数を費やして説明してほしいところは特に読み始めの最初の方では目につくかもしれない(たとえば14ページの「ここに典型的に表れているように、中国・中国人へのカフカの関心は、ジェンダー/セクリュアリティの問題と密接に絡み合っている」という一文で「典型的だ」と書いて済まされていることは、もっと詳しく説明があってもいいはず)が、細部にこだわらずとにかく全編、読みやすいところから読めば、全体として問題となっているところはわかるし、注も充実しているので、関連書籍へのアクセスも容易である。ちなみに、目次を見てもややわかりにくいと思うが、章の並びは、扱われているカフカの作品・テクストの成立年順である。
 個別に発表された論文を寄せ集めて作ったが故の読みにくさは、単行本のために加筆修正を施したあとも多少残っている。たとえば38ページまで読んで初めて副題の「男性同盟」という単語に行き当たるのは、やや不親切である(副題に男性同盟という単語を入れることが決まったのが本当に刊行直前のことであるという事情を知っているけれども、あえて苦言を呈します)。また、100ページに「カフカの『シオニズム期』と呼ばれる時期」と注釈なしで書かれているのに対し、131ページでそれはハルトムート・ビンダーの説であることが紹介され、さらに168ページによればマルト・ロベールがその見方を論駁していることも紹介されており、やや統一感を欠く記述となっている。著者は結局のところ、ビンダー説が正しいと判断して、ビンダーに倣って「カフカのシオニズム期」を定義づけているので、初出箇所に注がないこともある意味では当然かもしれないが、全体を通じて読むと、こういった不統一が理解の妨げにもなりうる。また、159ページでは「カフカのロシア物語には『ソーニャ(評者注:ドストエフスキー『罪と罰』の登場人物)がいない』」という指摘が紹介されているが、すでに99ページでも、ミルボー『責苦の庭』における女主人公クララに相当する人物がカフカの『ある流刑地にて』には見あたらないことが指摘されており、このような類似点は、合わせて深く追求されるべき論点だと思われる。カフカにとって文学が、女性を排除した「男性同盟的な営み」であるという結論に密接に関係する指摘であろうと思われるので。さらに、終章が本書全体の結びとはなっていない点は惜しまれる。第6章の民族ホームを扱った箇所などは、2009年夏に読んだばかりの二次文献も盛り込まれ、ブラッシュアップされているのに対し、終章は、2004年12月の博士論文執筆当時から「根拠薄弱」と私がコメントしたままの内容をひきずっており、本書をここまで読み進んだ読者にとっては論が深まるというよりは、序章の水準に戻ってしまっているような感が否めない。本書はあくまで「カフカの〈中国〉」に的を絞った論文集であり、そうであるが故に成功しているのだが、ひとたびカフカ全集をひもとけば、この本でカバーされていない箇所もすぐに見つかるのであり(たとえば長編『城』における女性たちの長広舌は、男性作家カフカが女性に仮託して書いたテクストであるし、カフカにとってロシアとは孤独・荒涼の地であるだけではなく、自身をナポレオンになぞらえて語る「野心の対象」でもある)、そういった点も含めて本書の議論の総括と今後の研究展望にはある程度の分量を割いてほしかった。
 さらにまた、黄禍・ユダヤ人・男性同盟に関するドイツ語圏の同時代言説を扱った箇所は内容が他に比べてやや浅薄で、インフォマティブなものとしてはおもしろいがその域を出ていない。男性性の危機や性科学の言説がなぜあれほどまでに20世紀初頭のドイツで活況を呈したのかということを、単にカフカの問題意識との「同時代」の「平行現象」として捉えて終わりとするのではなく、共通の精神的基盤の問題としてもっと追求されたい。その時代の空気は、第一次大戦前後のドイツ・フェミニズムの豊穣さ、つまり、民族ホームとの関連でカフカが愛読し、フェリーツェに読書を強要したリリー・ブラウン『ある女性社会主義者の回想』の背景ともつながってくるし、精神史の域まで研究を深めてこそ、初めて「ある言説空間とカフカの関係」を描き出したことになると思うが、どうだろうか。カフカ研究史に残る大物たちを鑑みるに、「最初に出した本が結局この人の業績の中で一番いい本だったよね」という例が多いが、著者には決してそうはなってほしくないと強く願って、結びとする。

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