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松浦寿輝のカフカ作品論(”Eine kaiserliche Botschaft”)書評(高野佳代) [本の紹介]


帝国とは何か

帝国とは何か

  • 作者: 山内 昌之
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1997/02
  • メディア: 単行本



Erzaehlungen I. Die Verwandlung / Ein Bericht fuer eine Akademie / Ein Hungerkuenstler / Eine kaiserliche Botschaft / Ein altes Blatt

Erzaehlungen I. Die Verwandlung / Ein Bericht fuer eine Akademie / Ein Hungerkuenstler / Eine kaiserliche Botschaft / Ein altes Blatt

  • 作者: Franz Kafka
  • 出版社/メーカー: Bange C. GmbH
  • 発売日: 1996/06
  • メディア: Perfect



松浦寿輝「帝国の表象」(『帝国とは何か』所収、37-60頁)
は、カフカ『皇帝の親書』(”Eine kaiserliche Botschaft”)論であった。
明らかなミス?と思える記述があったので
正しておきたい。
『掟の門』という作品が長編『城』のエッセンスになっている
という指摘があったのだが、それは長編『訴訟』の間違いでは?
『掟の前で(Vor dem Gesetz)』という、カフカ本人が編んだ短編集に収められている小品は、
創作ノートでは、『訴訟』の1節として書かれており、その内容がちょうど
『訴訟』全体へと「花弁がひらくように『展開』している」と指摘した人がいたことは覚えている。
(アドルノだったかベンヤミンだったか・・)
だが、『掟の門』と長編『城』がそのような関係にあるとは思えないのだが・・。

松浦氏は、皇帝が「du」に対して、メッセージを送っていること、しかもそれが書面ではなく、
周りで見ている家臣たちには聞こえない、使者だけに聞き取れる音声によるものであることを重視して、
この小品全体を、メッセージの不達、内容の空疎さのようなものを表したものと解し、
コミュニケーション一般論に引きつけて論じているのだが、
「帝国の表象」というタイトルをつけた以上、これが単なるAさんから「du」へのメッセージではなく、
「皇帝」からのものであることを強調し吟味しないと、この作品を「帝国の表象として読んだ」ことには
ならないのではないか。
さらにいえば、「皇帝」が死んでいること、死者のメッセージを携えての旅であることも
不当に考慮されていない。

また原題”Eine kaiserliche Botschaft”の Botschaftという単語が、メッセージそのものも、それを運ぶ使者のことも表すけれども、邦訳としては、「メッセージ」のほうを訳出するほうが適切である
と結論を下しているが、それもまた松浦氏が、メッセージの不達に過度に着目していることに起因するもので、
作品全体を読めばやはり、使者が遥かなる目的地へ一目散に向かっているイメージも大きな割合を占めていると思われ、「皇帝の使い」という訳もそれほど不適切ではない。

カフカは、使者がたゆまず懸命に届けようとしていることを否定してはいない。そして到着を夢想する「du」のことも否定していない。この作品における「帝国」への信頼感をこそ、味わい尽くしてもよいのではないか。

やはりカフカの作品はとてもおもしろいものだなーと感服。
引用されている、細部の書き込みに、思わず吹き出してしまう。
以下、原文

■Eine kaiserliche Botschaft
Der Kaiser - so heißt es - hat dir, dem Einzelnen, dem jämmerlichen
Untertanen, dem winzig vor der kaiserlichen Sonne in die fernste Ferne
geflüchteten Schatten, gerade dir hat der Kaiser von seinem Sterbebett
aus eine Botschaft gesendet. Den Boten hat er beim Bett niederknien
lassen und ihm die Botschaft ins Ohr geflüstert; so sehr war ihm an
ihr gelegen, daß er sich sie noch ins Ohr wiedersagen ließ. Durch
Kopfnicken hat er die Richtigkeit des Gesagten bestätigt.Und vor der
ganzen Zuschauerschaft seines Todes - alle hindernden Wände werden
niedergebrochen und auf den weit und hoch sich schwingenden
Freitreppen stehen im Ring die Großen des Reichs - vor allen diesen
hat er den Boten abgefertigt. Der Bote hat sich gleich auf den Weg
gemacht; ein kräftiger, ein unermüdlicher Mann; einmal diesen, einmal
den andern Arm vorstreckend schafft er sich Bahn durch die Menge;
findet er Widerstand, zeigt er auf die Brust, wo das Zeichen der Sonne
ist; er kommt auch leicht vorwärts, wie kein anderer. Aber die Menge
ist so groß; ihre Wohnstätten nehmen kein Ende. Öffnete sich freies
Feld, wie würde er fliegen und bald wohl hörtest du das herrliche
Schlagen seiner Fäuste an deiner Tür. Aber statt dessen, wie nutzlos
müht er sich ab; immer noch zwängt er sich durch die Gemächer des
innersten Palastes; niemals wird er sie überwinden; und gelänge ihm
dies, nichts wäre gewonnen; die Treppen hinab müßte er sich kämpfen;
und gelänge ihm dies, nichts wäre gewonnen; die Höfe wären zu
durchmessen; und nach den Höfen der zweite umschließende Palast; und
wieder Treppen und Höfe; und wieder ein Palast; und so weiter durch
Jahrtausende; und stürzte er endlich aus dem äußersten Tor - aber
niemals, niemals kann es geschehen -, liegt erst die Residenzstadt vor
ihm, die Mitte der Welt, hochgeschüttet voll ihres Bodensatzes.
Niemand dringt hier durch und gar mit der Botschaft eines Toten. - Du
aber sitzt an deinem Fenster und erträumst sie dir, wenn der Abend
kommt.

ポプラ社『百年文庫』所収のカフカ作品は「断食芸人」 [本の紹介]

ポプラ社が国内外の文学150作品を50点にまとめて2010年10月13日に創刊する「百年文庫」
http://www.poplar.co.jp/hyakunen-bunko/index.html

百年文庫の特徴

* 漢字一文字のテイスト別の編纂
* 日本と世界の名短篇を収録
* 1冊で3人の文豪の作品が味わえる
* オリジナルの木版画をあしらった美しい造本

《同文庫は野村浩介氏を中心にした編集者5人のプロジェクトで、5年間を費やして国内外の文学作品およそ2万5000冊を読破。著者別にリスト化したうえ、150作品を選出し、出版権、翻訳権も1点ずつクリアしてきた。》
(9/2 新文化)。

11巻『穴』
http://www.poplar.co.jp/hyakunen-bunko/lineup/

■収録作品
カフカ『断食芸人』
長谷川四郎『鶴』
ゴーリキイ『二十六人とひとり』


■内容紹介
なぜ、ここにいる?
世界を奪われた男たち

檻のなかで半眼を開き、飲まず食わずで座りつづける。そんな断食芸が喜ばれた時代は去り、誇り高き芸人は苦悩する(カフカ『断食芸人』)。完全なる静寂、闇に微かに震える翼
――北方で国境警備にあたる日本兵が塹壕の覗き穴からみた巨大な生命のうねり(長谷川四郎『鶴』)。地下室でパンを焼く男たちに笑いかけるターニャ。彼女の存在は疲れた男たちの希望だったのだが…。(ゴーリキイ『二十六人とひとり』)。踏みつけられた者たちの、胸に迫る人間ドラマ。

■著者紹介

■■カフカ Franz Kafka 1883-1924
プラハ生まれのユダヤ系ドイツ作家。労働者災害保険局に勤務しながら小説を書き、ウィーン郊外のサナトリウムで没した。生前には短篇集数点しか刊行されず、『失踪者』『審判』『城』などの長篇は、没後に友人の手で出版された。

■■長谷川四郎 はせがわ・しろう 1909-1987
北海道函館市生まれ。法政大学独文科卒業後、満鉄に入社。その後、陸軍に召集され、戦後シベリアに抑留された。帰国後、抑留体験を元にした『シベリヤ物語』を発表。翻訳でも多くの作品を残した。代表作に『無名氏の手記』『阿久正の話』など。

■■ゴーリキイ Maxim Gorky 1868-1936
ロシアの小説家。社会主義リアリズムの創始者。11歳で孤児となり、職を転々とした後、24歳で短篇『マカール・チュドラ』を発表。レーニンと親交を深め、革命運動の支援もした。代表作『どん底』はプロレタリア文学の最高峰とされる。


■編集者より
『二十六人とひとり』はゴーリキイの代表的な短篇のひとつ。作家の筒井康隆氏は『短篇小説講義』(岩波新書)という本の中でこの作品を取り上げており、ゴーリキイの短篇には、「『どん底』『小市民たち』『敵』といった戯曲を読んだ経験から、社会のどん底にあえぐロシア人民の暗い生活を、ひたすらリアリズムで描いた暗い作品に違いないという思い込み」があったけれど、『二十六人とひとり』については、「実験的な試みが感情の繊細さとうまく調和した秀作」であるとの評価を下しています。筒井氏と同じような思い込みをしている人は、意外と多いのではないでしょうか。『文学部唯野教授』という快作もある筒井氏がこの短篇をどのように分析しているかをお知りになりたい方は、ぜひ『短篇小説講義』をお読み下さい。(A)
(011)穴 (百年文庫)

(011)穴 (百年文庫)

  • 作者: カフカ
  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 2010/10/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




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川島隆著『カフカの〈中国〉と同時代言説――黄禍・ユダヤ人・男性同盟』彩流社(2010)書評 高野佳代(2010.4.7) [本の紹介]

川島隆著『カフカの〈中国〉と同時代言説――黄禍・ユダヤ人・男性同盟』彩流社(2010)書評 高野佳代(2010.4.7)

本の紹介はこちら
http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-24

 「カフカの〈中国〉」と聞いて、『万里の長城が築かれたとき』といった作品タイトルを思い浮かべる人も中にはいるかもしれないが、戸惑う人は多いだろう。本書は「万里の長城」以外にもカフカの書簡に表れた「中国人学者」のモチーフや『11人の息子』のなかの中国人の身振りなど、あるいは『ある流刑地にて』や『ある闘いの記録』など、一読しても中国モチーフとは気づかない作品までを幅広く扱っている。それならば、「カフカの〈中国〉」は「カフカの中国・中国人モチーフ」でもいいはずだが、そうとは記されていないのは、同時代の言説空間のなかでカフカが摂取し、構築した「中国」とはなんだったか、を主題としているという意味である。カフカと現実の中国との具体的交渉ではなく、愛読した漢詩集や黄禍論、東洋思想の流行を通じていかにカフカが中国に思い入れ、自己の問題を仮託していたかを本書は論じている。カフカが直面したユダヤ人差別の言説もまた、西洋白人男性とは異なって「肌の黄色い」「東洋的な」人種としてユダヤ人を語っており、本書はカフカ論の中でも「カフカのユダヤ人問題」を扱ったものと分類される。そういった民族アイデンティティは、不可分に「ジェンダー、セクシュアルポリティクス」と絡み合っているものであるが、なかでも、ホモソーシャル、女性嫌悪(ミソジニー)、男同士の絆といった側面がカフカの文学という営みを規定しているというのが本書の主張である。従来、カフカが「市民生活と文学(創作活動)」の相容れなさに悩み、「結婚ができない、父親になれない、だが孤独を追求もしきれない」状況を作品に描いてきたことは指摘されているが、著者は改めてカフカにとって文学とは何だったのか、恋人フェリーツェとの関係は何だったのかについて新しい解釈を提示している。
 本書の最大の美点は、最新の研究状況を反映した学術論文であるということである。日本におけるカフカ論は、先行研究を明らかにせず、著者の思い込みを綴ったエッセイが多く、たとえ学術論文の形式を採っていても独断と偏見に満ちたカフカ像の提示に終わっていることが多い。だが本書は、汗牛充棟の先行研究を見事に整理し、これまでの議論に欠けている点を的確に指摘し、新たな論拠に基づいて説得力ある説を展開している。主観的エッセイストが他人のカフカ解釈を一切認めないのに対し、著者のカフカ論は非常にフェアで、本書に対する反論があっても受け入れられるし、別のカフカ観をぶつけて議論することもできる。エッセイは自由で、学術論文は窮屈だと通常は思われるかもしれないが、ことカフカ研究に関しては、あるいは異なったカフカ解釈をもちよって議論するためには、このようなフェアな形式の方が、実は自由な世界を拓くのである。
 これからもまた、カフカが大好きで、我こそはカフカを深く理解しており、この世に二つと無い独創的な読み方が提示できると意気込んで「カフカ論文」を書く人は出てくるだろうが、その人は本書から、「あなたはなぜそのように徒手空拳で書き始めるのか」と問われるだろうし、それに答える責務がある。カフカの高度に抽象化された文学作品もまた、現実世界との接点があることを示し、カフカが生きた言説空間を知ることがこれほどまでにカフカ解釈を充実させることを証明した本書は、「なぜあなたは時代の文脈と制約を無視してカフカを読めるのか」と後続の研究者に問いかけてくるのである。
 これまで積み重ねられてきた「時代を超越し、常に現代においてアクチュアルな意味を持つ作家カフカ」という偶像崇拝は本書では厳しく批判されており、その意味でも本書は信頼できる。そうしたカフカ崇拝が高まるさなか、慧眼にもマルト・ロベールは『カフカ』(1960、邦訳:晶文社1969)のなかで、カフカの文学技法のひとつを「ほのめかし」であると説いたが、本書はその「ほのめかし」の内容を精査したものであるといえる。カフカが実は驚くほどに同時代人をこき下ろして自由闊達に態度表明をしていることを著者は具体的に明らかにしており、新たなカフカの一面が垣間見れて大いに驚かれるかもしれない。そのため、本書はお堅い研究論文ではあるが、一般のカフカ愛読者にもぜひ手にとって一読されたい面白い読み物でもある。小さな判型の本ながら、人名と事項に分けた二つの詳細な索引がついていることは、日本の学術書には珍しいことであり、自身の関心に合わせてピンポイントで本書を参照するのに便利である。また、モノクロながら図版も10点ほど収められており、当時のドイツ語圏に流通していた中国イメージがいかに偏見に満ちたものであるかが一目でわかるというだけでも、本書を手にとってパラリとめくってみる価値はある。

 内容については、正直にいって、2001年の3月、修士課程を修了した時から、本書が完成する2010年3月までずっと、ここに収められたすべての文章について、何回も読んでコメントし続けてきているので、フェアな判定ができる自信はない。今までバラバラに順不同に読んできた各章を、初めて著者の考える、統一の取れた順序で通読したことは、本という形がもたらす最高の愉悦であった。(初出タイトルと発表媒体についての記載が抜けているのは残念である。そのような情報は著者の関心がどのように移り、深化していったかを知る手がかりとなるので。)著者の文章は、格調が高く、時に難しいが、改めて縦に組まれた状態で読むと、彼なりには初学者にも易しくわかりやすく書こうとはしていたんだ、ということに気づいた。だが、それは何十回も本書に収められた論考を読んで内容を知っている評者の感想であり、それが初読者にも通じるかどうかは、広くご意見を頂戴したいところである。膨大なカフカ先行研究に目を通し、その議論を整理するだけでも特別の能力であり、常人は、収集するだけで力尽きるか、整理できず途方に暮れてしまうかどちらかである。そういった「高度な文献操作」についていけず、もう少し字数を費やして説明してほしいところは特に読み始めの最初の方では目につくかもしれない(たとえば14ページの「ここに典型的に表れているように、中国・中国人へのカフカの関心は、ジェンダー/セクリュアリティの問題と密接に絡み合っている」という一文で「典型的だ」と書いて済まされていることは、もっと詳しく説明があってもいいはず)が、細部にこだわらずとにかく全編、読みやすいところから読めば、全体として問題となっているところはわかるし、注も充実しているので、関連書籍へのアクセスも容易である。ちなみに、目次を見てもややわかりにくいと思うが、章の並びは、扱われているカフカの作品・テクストの成立年順である。
 個別に発表された論文を寄せ集めて作ったが故の読みにくさは、単行本のために加筆修正を施したあとも多少残っている。たとえば38ページまで読んで初めて副題の「男性同盟」という単語に行き当たるのは、やや不親切である(副題に男性同盟という単語を入れることが決まったのが本当に刊行直前のことであるという事情を知っているけれども、あえて苦言を呈します)。また、100ページに「カフカの『シオニズム期』と呼ばれる時期」と注釈なしで書かれているのに対し、131ページでそれはハルトムート・ビンダーの説であることが紹介され、さらに168ページによればマルト・ロベールがその見方を論駁していることも紹介されており、やや統一感を欠く記述となっている。著者は結局のところ、ビンダー説が正しいと判断して、ビンダーに倣って「カフカのシオニズム期」を定義づけているので、初出箇所に注がないこともある意味では当然かもしれないが、全体を通じて読むと、こういった不統一が理解の妨げにもなりうる。また、159ページでは「カフカのロシア物語には『ソーニャ(評者注:ドストエフスキー『罪と罰』の登場人物)がいない』」という指摘が紹介されているが、すでに99ページでも、ミルボー『責苦の庭』における女主人公クララに相当する人物がカフカの『ある流刑地にて』には見あたらないことが指摘されており、このような類似点は、合わせて深く追求されるべき論点だと思われる。カフカにとって文学が、女性を排除した「男性同盟的な営み」であるという結論に密接に関係する指摘であろうと思われるので。さらに、終章が本書全体の結びとはなっていない点は惜しまれる。第6章の民族ホームを扱った箇所などは、2009年夏に読んだばかりの二次文献も盛り込まれ、ブラッシュアップされているのに対し、終章は、2004年12月の博士論文執筆当時から「根拠薄弱」と私がコメントしたままの内容をひきずっており、本書をここまで読み進んだ読者にとっては論が深まるというよりは、序章の水準に戻ってしまっているような感が否めない。本書はあくまで「カフカの〈中国〉」に的を絞った論文集であり、そうであるが故に成功しているのだが、ひとたびカフカ全集をひもとけば、この本でカバーされていない箇所もすぐに見つかるのであり(たとえば長編『城』における女性たちの長広舌は、男性作家カフカが女性に仮託して書いたテクストであるし、カフカにとってロシアとは孤独・荒涼の地であるだけではなく、自身をナポレオンになぞらえて語る「野心の対象」でもある)、そういった点も含めて本書の議論の総括と今後の研究展望にはある程度の分量を割いてほしかった。
 さらにまた、黄禍・ユダヤ人・男性同盟に関するドイツ語圏の同時代言説を扱った箇所は内容が他に比べてやや浅薄で、インフォマティブなものとしてはおもしろいがその域を出ていない。男性性の危機や性科学の言説がなぜあれほどまでに20世紀初頭のドイツで活況を呈したのかということを、単にカフカの問題意識との「同時代」の「平行現象」として捉えて終わりとするのではなく、共通の精神的基盤の問題としてもっと追求されたい。その時代の空気は、第一次大戦前後のドイツ・フェミニズムの豊穣さ、つまり、民族ホームとの関連でカフカが愛読し、フェリーツェに読書を強要したリリー・ブラウン『ある女性社会主義者の回想』の背景ともつながってくるし、精神史の域まで研究を深めてこそ、初めて「ある言説空間とカフカの関係」を描き出したことになると思うが、どうだろうか。カフカ研究史に残る大物たちを鑑みるに、「最初に出した本が結局この人の業績の中で一番いい本だったよね」という例が多いが、著者には決してそうはなってほしくないと強く願って、結びとする。

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川島隆『カフカの〈中国〉と同時代言説 黄禍・ユダヤ人・男性同盟 』関連書 [本の紹介]

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M・アンダーソン『カフカの衣装』(1992、邦訳:高科書店1997)

Kafka's clothes : ornament and aestheticism in the Habsburg fin de siècle
ISBN: 0198151624(: hbk)
ISBN: 0198159072(: pbk)
S・スペクターの『プラハ領域』(2000)
Prague territories : national conflict and cultural innovation in Fran
z Kafka's fin de siècle / Scott Spector.
ISBN: 0520219090(: hbk)
ISBN: 0520236920(: pbk)
S・ギルマン『ユダヤ人の身体』(1991、邦訳:青土社1997)
The Jew's body / Sander Gilman.
4791755235
ISBN: 0415904587(: hbk)
ISBN: 0415904595(: pbk)
サイード『オリエンタリズム』(1978、邦訳:平凡社1986)
ISBN: 4582744028
ISBN: 0394428145


Kafka's Clothes: Ornament and Aestheticism in the Habsburg Fin De Siecle

Kafka's Clothes: Ornament and Aestheticism in the Habsburg Fin De Siecle

  • 作者: Mark M. Anderson
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Sd)
  • 発売日: 1992/07/16
  • メディア: ハードカバー



Kafka's Clothes: Ornament and Aestheticism in the Habsburg Fin De Siecle (Clarendon Paperbacks)

Kafka's Clothes: Ornament and Aestheticism in the Habsburg Fin De Siecle (Clarendon Paperbacks)

  • 作者: Mark M. Anderson
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
  • 発売日: 1995/02/16
  • メディア: ペーパーバック



Prague Territories: National Conflict and Cultural Innovation in Kafka's Fin De Siecle (Weimar and Now, 21)

Prague Territories: National Conflict and Cultural Innovation in Kafka's Fin De Siecle (Weimar and Now, 21)

  • 作者: Scott Spector
  • 出版社/メーカー: Univ of California Pr
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: ハードカバー



Prague Territories: National Conflict and Cultural Innovation in Franz Kafka's Fin De Siecle (Weimar and Now: German Cultural Criticism)

Prague Territories: National Conflict and Cultural Innovation in Franz Kafka's Fin De Siecle (Weimar and Now: German Cultural Criticism)

  • 作者: Scott Spector
  • 出版社/メーカー: University of California Press
  • 発売日: 2002/08/05
  • メディア: ペーパーバック



ユダヤ人の身体

ユダヤ人の身体

  • 作者: サンダー・L. ギルマン
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 1997/03
  • メディア: 単行本



The Jew's Body

The Jew's Body

  • 作者: Sander L. Gilman
  • 出版社/メーカー: Routledge
  • 発売日: 1991/09
  • メディア: ハードカバー



The Jew's Body

The Jew's Body

  • 作者: Sander L. Gilman
  • 出版社/メーカー: Routledge
  • 発売日: 1991/10
  • メディア: ペーパーバック



オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: エドワード・W. サイード
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 新書



オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: エドワード・W. サイード
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 新書



オリエンタリズム

オリエンタリズム

  • 作者: エドワード・W. サイード
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1986/10
  • メディア: 単行本



『トーラーの名において』 [本の紹介]


トーラーの名において シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史

トーラーの名において シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史

  • 作者: ヤコブ・M・ラブキン
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2010/04/02
  • メディア: 単行本



「トーラーの名において――ユダヤ教超正統派による反シオニズム闘争の100年」

【著者ヤコブ・ラブキン(モントリオール大学教授)略歴】1945 年、旧ソ連、レニングラード(現サンクト=ペテルブルグ)生まれ。レニングラード国家大学で化学ならびに東洋学を専攻。ソ連科学アカデミー(モスクワ)で科学史の博士号(Kandidat Nauk)を取得。1973 年以来、カ ナダ、モンレアル(モントリオール)大学歴史学科に専属し、アメリカ、フランス、イスラエルの各大学で客員教授を歴任。科学史、ロシア史、ユダヤ史を講ずる。既刊書に『超大国間の科学』(1988)、『近代における科学文化とユダヤ文化の相互作用』(1995、アイラ・ロビンソンとの共編)、『ポスト共産主義世界における新技術の普及』(1997)があり(いずれも未邦訳)、その他、研究論文の主題は広範多岐にわたる。『トーラーの名において――ユダヤ教内部からのシオニズムに対する抵抗の歴史』(フランス語、2004)は、英語(原題"A Threat From Within: A Centuryof Jewish Opposition to Zionism" 2006 年、カナダ総督賞受賞)、アラビア語、スペイン語、イタリア語、オランダ語、ポーランド語訳に訳され(ヘブライ語、ロシア語、中国語、トルコ語、インドネシア語への翻訳も進行中)、世界各地で反響を呼んでいる。使用言語はロシア語、ヘブライ語、フランス語、英語、スペイン語。

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『イメージの修辞学 ことばと形象の交叉』 [本の紹介]

イメージの修辞学 ことばと形象の交叉

西村清和/著
●本体5500円+税

2009年11月15日/A5判上製/544ページ/ISBN978-4-88303-254-9

こ とばとイメージの連関の仕組を総括する。

「読むこと」そして「見ること」で得られるイメージの相違と連関についての議論は古代より続き、いまも多彩な主張が乱立している。それらを精査し、「読書とイメージ」「視覚的隠喩」「小説の映画化」「〈物語る絵〉のナラトロジー」「小説と挿絵」の五つの視点から、ことばと形象の交叉がもたらす経験とその歴史的変遷を、多くの実例をひきながら問いなおす。

絶賛書評《図書新聞》(No.2959 ・ 2010年03月27日一面、評者:高山宏氏「新世紀のレトリケーの誕生――この半世紀の批評ブームの本質に関心ある人々は必読!」)

【目次】

序 7
第Ⅰ部 ことばとイメージ

第1章 読書とイメージ 12

1 観念とイメージ 12
   イメージ化の読み/12 近代認識論における「イメージ」/14
   詩と絵画のパラゴーネ/16 詩の絵画的描写/18 バーク/22 レッシング/25
2 知覚とイメージ 27
   ウィトゲンシュタイン/27 イメージと知識/28 イメージと知覚/31
3 意味とイメージ 34
   意味の規格型と素性/35 イメージ価と「概念的――ペグ」/37
4 読書とイメージ 39
   サルトル/40 イメージの「効果」/42 ホメーロスの描写/45

第二章 視覚的隠喩は可能か  48

1 転義とモデル 48
   隠喩の代置理論、比較理論/49 隠喩の相互作用理論/50
2 隠喩と類比 53
   認識論的隠喩論/53 類比による世界認識/55
3 隠喩と象徴 57
   記号論的隠喩論/57 隠喩的例示/58 暗示と象徴/61
4 隠喩の述語限定理論 64
   一時的な言語ルール/64 アスペクトの認知/66 述語限定理論/68
5 隠喩と直喩 71
   比較と同定の陳述文/72 恣意的直喩/74 隠喩の「含み」/76
6 隠喩とイメージ 78
   隠喩のイコン性/78 非言語的隠喩/80
7 絵画的隠喩 83
   視覚的ジョークとカリカチュア/83 視覚的駄洒落/86
   合成イメージ/89 広告の発話/92
8 映画的隠喩 95
   隠喩的モンタージュ/96 映画的文彩/98 説話外的なイメージ/101

第三章 詩と絵画のパラゴーネ 104

1 ことばの優位 104
   エクフラシス/104 パラゴーネ/105
2 イメージの形而上学と解釈学 107
   イコノグラフィーとイコノロジー/107 ベーム「イメージの解釈学」/108
   ベッチマン「美術史解釈学」/111 イムダール「イコニーク」/113
3 「露出した意味」 115
   バルト「逐字的メッセージ」/116
4 知覚経験と名指し 118
   ブライソン「図像的なもの」/118 構文的な絵画/121 心理学的唯名論/124
5 視像の情熱、形態の欲望 126
   位相化/127 言語のテクスチュアと絵画のテクスチュア/128
第Ⅱ部 小説の映画化

第四章 物語と描写 132

1 描写の位置 132
   映画化への欲望と批判/132 補助的言説としての描写/135
   描写の近代とリアリズム/137
2 テクスト・タイプと「奉仕」関係 139
   「物語に奉仕する描写」・「描写に奉仕する物語」/140
3 意味の統辞法、知覚の統辞法 142
   明示的な描写/143 モンタージュ――知覚の統辞法/145 描写の物語/147
4 描写の物語 149
   心的イメージと知覚映像/149 小説の描写/151
   映画の描写/152 「効果」の対比と異同/154

第五章 語りのモード 156

1 語りの「態」 156
   物語言説と物語内容/156 「不可視の観察者」と語り手/158
2 語りの「視点」 161
   〈背後から〉の視点/162 〈ともにある〉視点/165 内面のリアリズム/168
   〈情況〉の視点/173 〈外部から〉の視点/177 物語の叙法のパターン/178
3 映画における語りの視点 180
      1.〈全知〉の視点、〈情況〉の視点/181
      2.〈ともにある〉視点/185 ● 三人称と一人称/188 ● 「一人称映画」/190
      3.〈外部から〉の視点/191 語りの視点の混合と移行/193
第Ⅲ部 「物語る絵」のナラトロジー

第六章 「物語る絵」の叙法 196

1 絵画の「物語」 196
   タブローという装置/196 絵画のナラトロジー/200
2 物語言説のメディア――中世の「物語る絵」 202
   ミニアチュール/202 ビザンチンの壁画/205
   ステンドグラス/207 聖なるテクストの優位/210
3 エクフラシスの修辞学 211
   絵解きとしてのエクフラシス/211 ゼウクシス的イリュージョニズム/213
   イコン的イリュージョニズム/215 超越的な〈全知〉の視点/217
4 描かれた世界の自立 220
   ジョットの革新/220 「含蓄ある瞬間」/223
   ヒューマニストのエクフラシス/225 アルベルティの「構図」と遠近法/227
   ヴァザーリの美的なエクフラシス/228
5 指示者のモチーフ 230
   超越論的〈全知〉の視点/230 修辞的イリュージョニズム/232
   美的イリュージョニズム/234 「劇的クロース・アップ」/236
6 画中の代理人――「母と子」と「後ろむき」のモチーフ 239
   奥行き方向の劇的緊張/239 「母と子」のモチーフ/242
   「後ろむき」のモチーフ/245
7 美的イリュージョニズム 248
   描写的リアリズム/248 ディドロの美的なエクフラシス/251
   美術カタログ/255 イメージに奉仕することば/257
8 「没入」のモチーフ 259
   〈情況〉の視点と絵画的描写のリアリズム/259
   没入のモチーフと内面性/262 「演劇的」と「タブロー」/265
9 仮象論の逆説と〈ともにある〉視点 269
   観者の現前と不在のパラドックス/269 観者の美的な存在情況/271
   肉眼の「視角」と語りの「視点」/273 物語る絵の〈ともにある〉視点/276
   交叉する視線のドラマ/280
10 情況のタブロー 282
   メロドラマ/282 明暗法――光の遠近法/284 物語る絵の叙法のパターン/286
      1.超越的〈全知〉の視点/287 
      2.超越論的〈全知〉の視点/287 
      3.〈ともにある〉視点、〈情況〉の視点/288

第七章 近代絵画における語りの視点 290

1 小説と絵画の遠近法 290
   ケンプの受容美学/290 「観者の位置」に自覚的な構成/290
   「多重遠近法的」な構成/292 小説と絵画のパラレリズム/294
2 目撃者の「視角」と語りの「視点」 299
   語りの「態」と「叙法」/299 目撃者と「内包された読者」/300
   カメラマンと映画監督と画家/305
   指示者のモチーフ、後ろむきのモチーフ/306
3 〈ともにある〉視点の画面構成 309
   エッグ《過去と現在》/309 クリンガー《母》/312 スケッチの美学/314
第Ⅳ部 小説と挿絵

第八章 近代小説と挿絵 318

1 挿絵の歴史 318
   十五世紀/319 十六世紀/320 十七世紀/321 十八世紀/323 グラヴロー/327
2 形象のディスクール――グラヴロー 330
   ルソー『新エロイーズ』挿絵/330 挿絵の記号論的分析――バシィ/333
   語りの光源・サン=プルー/336 読者の反応――ラブロスの分析/338
3 私的な情感――コドウィエツキーとストザード 340
   コドウィエツキー/340 ストザード/343
4 近代的叙法の成熟 346
   ターナー――廃墟・ゴシック・ピクチャレスク/346
   ビュイックとクルックシャンク――ビネット/348
   小説の挿絵と舞台のタブロー/351 挿絵の映画的手法/352
   ラファエル前派/355 内省の挿絵に対する批判/357

第九章 明治期小説の「改良」と挿絵 361

1 小説の「改良」 361
   坪内逍遙『小説神髄』/362 内面のリアリズムと文体/365
   制度としての漢文体/368
2 『当世書生気質』 370
   新味と限界/370 二葉亭四迷『浮雲』/374
3 言文一致運動 377
   語尾と待遇感情/377 「である」体の採用/379
4 逍遙以後の小説 381
   「人間派」と「没理想」/381 西洋近代叙法の例外的さきがけ/383
   「自叙躰」の流行/385 三人称〈ともにある〉視点の確立/390
5 日本における「物語る絵」 393
   絵巻の文法/393 江戸の戯作本/396 洋風画/398
6 戯作下絵から小説挿絵へ 400
   来日画家の影響/401 洋風挿絵受容の限界/404 新聞小説と挿絵/407
   浮世絵系挿絵/409 容斎派の画家たち/412 洋画家たちの参入/413
7 小坂象堂と自然主義 415
   日本画の自然主義/415 无声会/419
8 梶田半古と新風 422
   烏合会/422 梶田半古の日本画/424 富岡永洗と梶田半古/426
   右田年英と松本洗耳/429 新旧挿絵の混在/431 梶田半古とアール・ヌーボー/433
9 鏑木清方の小説経験 437
   西洋画の翻案/438 情況のタブローと〈ともにある〉視点/441

註 445
あとがき 509 

事項索引 1
人名索引 7
参考文献 13
イメージの修辞学―ことばと形象の交叉

イメージの修辞学―ことばと形象の交叉

  • 作者: 西村 清和
  • 出版社/メーカー: 三元社
  • 発売日: 2009/11
  • メディア: 単行本







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カフカ研究者川島隆編著『コミュニティメディアの未来  新しい声を伝える経路』 [本の紹介]

松浦 さと子編著
http://adgj.net/satoko/official/
川島 隆編著
近日発行の単著 http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-24
業績紹介 http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-07-1

税込価格: ¥3,045 (本体 : ¥2,900)
出版 : 晃洋書房
サイズ : 21cm / 304p
ISBN : 978-4-7710-2150-1
発行年月 : 2010.3
利用対象 : 一般

コミュニティの経験をコミュニティに伝える小さなメディアは、「市民が情報の発信者となる」という理念を現実のものにしている。現場の声を中心に、コミュニティメディアの世界の過去・現在・未来を描き出す。

目次

序章 いま、コミュニティメディアの必要性を問う[松浦さと子(龍谷大学)・川島隆(滋賀大学)]

第Ⅰ部「生きのびる」ためのメディア
第1章 マイノリティの社会参加を促すコミュニティラジオ――FMわぃわぃを持続可能にする仕組み[日比野純一(FMわぃわぃ)]
第2章 世界のコミュニティラジオ――平和と開発のための国際運動[スティーブ・バクリー/アシシ・セン(牧田幸文(龍谷大学)/松浦哲郎(龍谷大学)訳]
第3章 コミュニティメディアとジェンダー――女性の主体的なコミュニケーションのために[牧田幸文]
Column 1「シングルマザーをつなぐホットライン・電話相談」(中野冬美)
第4章 台湾の原住民族電視台――「主体の現われ」としてのコミュニティメディア[林怡蓉(関西学院大学)]
第5章 フリーターズフリーという試行――不安定雇用の若者たちによる社会的起業[生田武志(フリーターズフリー)]
Column 2「映画『フツーの仕事がしたい』で、つながりたい」(土屋トカチ)

第Ⅱ部 社会運動とコミュニティメディア
第6章 権利の獲得とメディア・アクティビズム――メディアに関わる市民の課題と可能性[白石草(OurPlanet-TV)]
Column 3「労働運動の映像表現 「レイバーフェスタ・大阪」を支えて」(津村明子)
第7章 コミュニティ・アクティベーションの視点――イタリア・ミラノにおけるメディアの重層性から[山口洋典(同志社大学)]
Column 4「コミュニティメディアよ 発露せよ!」(甲斐賢治)
第8章 民主主義と自由と正義を求めて――ラテンアメリカから学ぶコミュニティラジオ運動[日比野純一]
Column 5「FMピパウシ、先住民族のラジオ、ボリビアでの交流から」(萱野志朗)
第9章 AMARCとは何か―モントリオールの記憶・ラテンアメリカの実践[松浦哲郎/吉富志津代(FACIL)]
第10章 ヨーロッパの自由ラジオ運動史――公共圏がコミュニティに定着する過程[川島隆]

第Ⅲ部 制度化のモデルを問う
第11章 北米コミュニティテレビの法政策史―地域社会の再生をめざした試みの記録[魚住真司(関西外国語大学)]
第12章 ドイツ市民メディア政策のゆくえ――社会運動と公的制度をつなぐ細い糸[川島隆]
第13章 英国コミュニティラジオの展開――「新労働党」のメディア政策のもとで[Salvatore Scifo(マルマラ大学、イスタンブール)・近藤薫子(ウエストミンスター大学、ロンドン)訳]

第Ⅳ部 地域社会とネットワーク
第14章 自立を模索する英国コミュニティメディア――公共財源獲得と社会的企業化の挑戦[松浦さと子]
Column 6「『市民のテレビ局』でゆるやかな変革をまちに、自分に」(河戸道子)
第15章 ストーリーテリングと地域社会――虫の目から作りかえる世界[小川明子(愛知淑徳大学)]
Column 7「日本の離島・我ンキャ(私たち)の中心」(麓憲吾)
第16章 ミックスルーツ――ネットとSNSが築いた対話[須本エドワード豊(英国大使館)]
Column 8「ダムをとめた川辺川運動体とメーリングリスト」(永尾佳代)
第17章 難民ナウ!が人々をつなぐ――放送枠利用者の期待[宗田勝也(同志社大学)]

終章 未来への提言――制度化とネットワーク形成へ向けて[松浦さと子/宗田勝也/松浦哲郎]

資料
○1. がんばれコミュニティ放送 要録と議論の課題[池田悦子(龍谷大学)]
○2. AMARC-ALC行動原理[吉富志津代訳]
○3. コミュニティメディアに関する欧州議会決議[松浦哲郎訳]

あとがき
参考文献    
索 引


コミュニティメディアの未来―新しい声を伝える経路

コミュニティメディアの未来―新しい声を伝える経路

  • 作者: 松浦 さと子
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 2010/03
  • メディア: 単行本







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『グーテンベルクからグーグルへ』書評 高野佳代 2010.3.25 [本の紹介]

本に関する詳細はこちら
http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-20
http://www.kanzaki.com/book/g2g/

『グーテンベルクからグーグルへ』書評 高野佳代 2010.3.25

 『グーテンベルクからグーグルへ』という、なにか壮大な変革がおこわなわれていることを想起させるタイトル、「デジタルの『本』の氾濫は、文学研究の制度、ひいては、人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける。」という帯のフレーズ、グーテンベルク聖書を高細密にデジタル化し(http://www.humi.keio.ac.jp/treasures/incunabula/B42-web/b42/html/index_jp01.html)、グーグルブックへの参加も日本でいち早く表明した(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070706/276938/)慶応大学の出版会の出版物、意味ありげな絵柄が配された白いハードカバー、そういったものから、本書は紙の本をデジタル化する事業が話題に上らない日はない今日のために、とても決定的なことを述べていると期待する人が多いと思う。だが、その期待は裏切られると先に申し上げたい。本書は、いわゆる「文学作品」の「学術研究」のために使うことが出来る「学術編集版テキスト」を編集する専門家が、その仕事の紹介をし、意義を理解されたいと求めるささやかな本であり、日本で言えば、講談社メチエくらいのソフトカバーの装丁が適切な、軽めの本である。全体が緊密に構成された1冊の本というよりは、どの章からも読み切り可能な寄せ集めのエッセイ集である。特に、「文学の学術研究」に耐える「版」とはどのようなものかを説く前半と、そのような「学術版」の限界を説く後半のトーンの違いには、著者の認識が時を経て変遷したことも考えられるため、あまり細部にこだわらずに全体をさっと読み流す方が良いと思われる。

また、日本語訳は決してこなれたものとはいえず、訳をみるだけでは何を言っているのかさっぱりわからないところ、訳注がもっと親切にあってほしいところなどがある。そのため訳者の一人、明星氏が目指したであろう「日本人のための編集文献学入門書」の役割もやや果たしにくいものになってしまっているのは残念である。もっとも、日本にこの分野の訳書がまったくないといってもいい状況の中で、「編集文献学」という訳語を創出するところから始めなければいけなかったという労力は多としたい。

 電子テキストの氾濫、というのは、この本によれば、誰がどのような方針で編んだかもわからないペーパーバック版が、ただ入手が容易であるという理由で大量に出回り、正確を期して専門家が編集に努めた学術版が存在するにもかかわらず、ペーパーバックに基づいてシェークスピアを論じる人がいる(著者によれば、ペーパーバック版では当時のシェークスピアについて理解を深めることはまったく不可能だという)、という問題とほぼ同じことであり、学術版編集者の仕事がいかに世の中に求められず、理解されず、役に立っていないかという嘆きが本書後半からは伝わってくる。つまり、著者が言いたいことは、学術編集版の価値を知って、適切に利用しましょう、編集とは、何らかの目的のために、何らかの基準や方針に基づいて「オリジナル原稿」を加工するということであり、そのことをよく理解して「編集された物」は使いましょう、ということであり、ごく基本的なリテラシーを再確認しているにすぎない。

たとえば、「大江健三郎の短篇が、1996年刊の自選集に収められたときに、地の文および登場人物の台詞における〈トルコ〉〈トルコ風呂〉などの表現が、当時存在しなかった〈ソープ〉という表現に変えられた」という事実がある。トルコ風呂、という言葉はあまり用いてはいけない言葉になったから、新たに印刷して出版する場合はその言葉を避けた、という判断は、完全に非難されるというたぐいの物ではないだろう。だが、その「編集」操作を知らず、ある研究者が「大江健三郎は執筆当時から、トルコ風呂という単語の使用を避けており、トルコ国民に対する侮辱の可能性を視野に入れていたのは誠に慧眼だ」という論文を書いたとしよう。そんな「解釈」は笑止千万で、プロの研究者ならばありえないことだと思われるかもしれないが、原理的にはこれと似たような「文学研究」がたくさん行われている。そこで著者は、読者、研究者、テキストの利用者にはテキストには何らかの編集が行われていることを自覚するよう促し、編集者に対しては編集の痕跡を明示し、なぜそのような操作を行ったかを明記し、次代の編集者・研究者の批判的検討に耐えうる「版」を作るよう要請する。

この主張はごく当たり前のことのように思えるが、実際には編集専門家のあいだでも共有されているとは言い難い認識らしい。この道30年の著者ですら、自身が編集したサッカレーの学術版を、自身が委員長を務めたこともあるMLA編集文献学委員会に学術版と認定されなかったという(!)。もっともその理由は、相手の委員長が、手稿版ではなく公刊された板を編集の底本とするのが良いと考えていたのに対し、著者は手稿を尊重する編集方針を採ったからではないかと書かれているのだが・・。

手稿こそが「オリジナル」なのか、作家が出版に当たって校正を重ねて「これで世の中に出して良し」とした版を「オリジナル」とするのか。そのどちらも妥当性を含んでいるし、著者の言うとおり、どんな編集方針もなにがしかの欠損と欠点を含む。だから「完全無比で今後いっさい再編集する必要はない」という学術版を編むことは出来ないし、すべての「ヴァリアント(異稿)」を平等に見せ、それぞれの異同や生成の来歴を事細かに注記した電子テキストが、日々更新されていくことこそが望ましい最良の解決策であるというのが著者の主張である。

そのための具体的な技術(TEIとXMLを使うこと等々)、予算の確保方法、編集者が最低限従うべきMLAガイドラインなども本書に提示されている。紙媒体で出版するしか方法がなかった時代には達成できなかった、そのような異稿や注記の見せ方を可能にするのが電子テキストであり、電子テキストこそが現在の学術編集版の唯一の解決法であると書かれている。他方、「どうでもいい」と著者には思えるような些細な改変を記録した異稿まですべて盛り込んで、「中立、公正、客観的」であろうと努める編集者の努力は、利用者を無用に迷わせるものであり、むしろ、明快に編集方針を貫いて、適宜読みやすい形・分量にするのも学術版編集者の望ましい姿であるとも書かれている。

手稿にも印刷板にもそれぞれの価値があるという考え方、さまざまな編集方針による学術版の乱立も、それぞれが批判に耐える物である限り許容されるという考え方も、電子テキストこそが唯一の解決策だという結論も、まさに現時点の批判理論・文学研究・デジタル化技術の限界の中の産物であり、著者もそのことを認識している。だが、ところどころ、「作家がテクストに関して下した判断こそがもっとも考慮されるべきものである」という信念や、「紙媒体ではもはや用は足せない」という思い込みが見え隠れしているようにも思える。評者が一点非常に疑問に思ったのは、日々更新される電子テキストが、紙の学術批判版同様に研究ツールとして学術研究に耐えるかということである。もし、良心的な研究者が協働作業によって日進月歩の研究成果を盛り込んで、適切に「学術編集版電子テキスト」上で編集し続けたとして、それは、学術研究者たちの共同のテキストとなり得るだろうか?紙のテキストであれば、何年何月発行本の何ページと指定すれば後年の研究者ともずっと研究成果を共有することが可能であるが、日々更新される電子テキストは、そのような用には耐えない。(もちろんアーカイブ機能はついているかもしれないが、Aさんが何月何日何時何分に見たテキスト、というものを、注などのアプリケーション動作も含めてすべて完全に再現することはかなり難しいと思われる)。同時代の研究者とさえも
「同じ」デジタル・テキストを介して各自の解釈を提示し、交換し、深めていく作業は不可能だろう。「同一性の保持」「後世の参照可能性」という点で紙の本はまだ電子テキストより優れている。(もちろん著者も、紙の方が保存性に優れていることは認識している)

(注 3/26の国際会議の会場にて、隣に座っていたのが著者だったので、直接この疑問をぶつけてみた。「初めまして。私は国会図書館の司書です。御本を読ませていただき、1点質問があります。あなたは、日々更新され続けるナリッジサイトという電子テキストアーカイブを学術編集版として用いるべきだと言っていますが、動的なプログラムは保存やアーカイブが困難で、同時代や後世の学者が紙媒体のように『同じ一つのテキスト』を共有して研究することは困難なのではないでしょうか?」「ナリッジサイトは、一つ一つのバージョンの異なるテキストをすべて保管しているアーカイブで、個々のテクストはFRBRでいうところのitemに当たるから、DOI(http://en.wikipedia.org/wiki/Digital_object_identifier)で全部管理されているよ。紙の方がスタビリティがある、という君の観念は間違っているよ。これで適切な答えになったかな?僕にも一つ質問したいことがある。君は明星さんが書いた5ページほどの巻末エッセイを読んだかい?何が書いてあった?ヘルプフルなイントロダクションになっていたかい?」「え?あなたは何が書かれているか知らないんですか?直接彼女に聞いて下さいよぉ・・」「彼女は教えてくれないし、訳してもくれないんだ」「イントロダクションではなく、彼女の独自の意見が述べられていました。彼女は日本の学者が編集文献学の理論や、理論的思考に興味を示さないことを残念に思っています」「それは興味深い!どうして日本の学者はそういう態度なんだい?文化的なもの?彼らはまったく必要ないと思っているのかい?」「日本で編集を担っているのは、学者ではなく、出版ビジネスのなかで生きる職人さんたちだから・・・」ここで私の英語に愛想が尽きたのか、彼は「やっぱり彼女に尋ねるべきだよね」と席を立ちました。終わり)(日本語訳は、高野の理解の範囲内のものであって、原文とはおよそ異なるでしょう)

また、デジタル化に費やされた研究者の労力を、紙と鉛筆しかなかった時代の研究者はすべて紙の本を読み、思索を深めることに用いているとすれば、「文学研究」は果たして進化しているのか停滞しているのか・・・。白氏文集と源氏物語のすべてを頭に入れて読むしかなかった国文学の読者と、それらの注は随時パソコン画面上で参照すれば済むと思っている現代の利用者は、どちらが「望ましい読者」か・・・。

ほかにもいくつか、著者がまったく疑っていない事柄について、疑念を呈したい。著者が自身の経験から、後進が同じ苦労をしないようにと勧めている、デジタルテキスト作成・維持管理の技術についても、現在想定されている編集作業とは全く違うパラダイムに則って作業される「新しい編集」がもしあるとしたら、そのときは必ず技術革新を伴っていると想定される。つまり、著者は、複数の編集者による共同作業を念頭に置いているが、それは、コンピュータネットワークを介して、複数人が一つのファイルにアクセスし、編集作業をできるようになったというハード面での条件に基づいているように思われる。Google社やツイッターに代表されるように、誰も体験したことのない、想像すらしていないかもしれない革新的なツールを生み出す組織が現にあって、人々の生活様式を変え続けている現状をかんがみれば、「学術編集版はこのようなものであってほしい、あったらいいな」という想像の幅もきっと広がって、今は想像できないような技術を使って編集作業が行われるかもしれない。「さまざまな編集方針がありえる」という想定と、「普遍的な、最適解の編集ツールがありえる」という想定は矛盾しているようにも感じるのだが、どうだろうか・・。

そして、より大きな前提として、著者は、「文学の学術的研究」の価値やその業界の存在をまったく疑っていない。これはある意味、驚異的なことで、だから出版者がつけた誇大広告フレーズ「デジタルの『本』の氾濫は、文学研究の制度、ひいては人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける」は、本の紹介としてはまったく当たってない。確かにさまざまなツールで編集ができるようになり、ひとつの「作品」について、その「テキスト」は複数あるのだ、ということが世の中に広く知られるようになることは、よりいっそう「権威ある編集」の存在価値を高めるかもしれないし、その必要性が認知されることにつながるかもしれない。けれども、私は大衆のために書かれた小説というメディアを「研究」する態度として「学術的」なものが唯一の制度とは思わない。学術的ではない研究、というと撞着語法のようだが、ある作品のより「おもしろい」(意義深い)解釈を提示すること、作家と作品の理解を深めることを「研究」というならば、それは必ず「アカデミックサークル」内の「学術編集版に基づくこと」という了解事項に同意していなくてもいいように思うが、どうだろうか?

そもそも「学術編集版」って何なの?複数の「版」が存在することが、ある「文学研究」にどのような問題を引き起こすの?と思われる方は、ぜひサンプルとして『新しいカフカ』という明星聖子氏の、カフカ研究における「批判版」との格闘をご覧いただきたい。カフカ研究史においては、カフカの生涯の親友マックス・ブロートが、カフカの遺稿を独占し、独断と偏見によって『カフカ全集』を編んだために、長年研究者たちは、カフカの手稿、草稿、学術的批判検討を経た学術編集版を入手することが出来なかったという事情がある。明星氏がカフカ研究に着手した頃には、ブロート版を過去の物にするような、新しい「批判版」が準備されつつあった(2010年3月25日現在も批判版の完成は待たれているところである)が、その「批判版」の編集方針にも重大な欠陥があると気づいた明星氏はそこから研究を始められた。

確かに、そういった事情を無視して、批判版を盲目的に信用して「カフカ研究」を行うのは、先に挙げた大江作品の例のように、笑止千万な成果しか生まないかもしれない。だが、ブロート版しかなかった時代にも、現在も通用するような、現在の研究者にも超えられないような水準の「研究成果」、カフカ論というのは生まれていたということもまた指摘しておきたい。それは大学教授が学会で発表したアカデミックなものに限らず、在野の批評家の手になるものも含まれる。著者は決して、学術編集版に基づかない作品解釈を排除しているわけではなく、そういうものもありえる、という立場を採っているが、それでも大学教授という職業の性なのか、「不勉強な読者」を嘆き、貶める口調もないわけではない。だが、著者が「素人」相手の授業のために用意するようなテクスト、劇場公開された映画がDVD化されるときに付録としてつく「メイキングの特典映像」のようなものが、「文学研究」をよりいっそう充実させる可能性もないわけではないのだ。原書の副題である「electronic representations of literary texts」(文学テキストの電子的再現)は、非常に手間暇のかかるものであるのだから、想像以上の成果を生むことを祈念してやまない。

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川島隆『カフカの〈中国〉と同時代言説 黄禍・ユダヤ人・男性同盟 』 [本の紹介]

川島 隆 著
http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-03-07-1
四六判 / ページ / 上製
定価: 2800 + 税
ISBN978-4-7791-1528-8 C0098
[2010年04月 刊行]
彩流社
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1528-8.html
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7791-1528-8.html

書評 http://franzkafka1883-1924.blog.so-net.ne.jp/2010-04-07

内容紹介

現在、カフカの研究状況は世界規模で大きな転換を迎えている。とくに1990年代以降、文学研究の重点が文化研究へと推移したことを反映して、カフカ研究もまた、かつての神学的解釈や実存主義的解釈から、具体的な文化・社会現象との関係で多角的に作品を見る方向へと向かっていった。身体論や都市論にもとづく言説分析からカフカ作品の斬新な読み方を提示したM・アンダーソンの『カフカの衣装』(1992、邦訳:高科書店1997)や、同時代のプラハの知識人たちが民族問題にどう関わったかを扱ったS・スペクターの『プラハ領域』(2000)は、その好例である。

しかし日本国内に話を限れば、いまだにカフカ文学=実存主義文学というイメージが根強い。そのような状況下にあって、ともすれば社会に背を向けた文学として読まれがちだったカフカの作品を、同時代の社会的現実への応答として読み解くのが本書の目的である。特に、民族問題(反ユダヤ主義やシオニズム)とジェンダー(性愛や家族制度)の問題に対してユダヤ人男性としてのカフカがどのように応答したかを明らかにすることを通じて、これまで数多く論じられてきた「カフカとユダヤ」の問題系にも、新たな光を当てることをめざす。

その際、手がかりとするのは、カフカの中短編に描かれた「中国」と「中国人」のモチーフである。19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパでは、全般に東アジア文化の受容機運が高まっており、カフカも漢詩のドイツ語訳を熱心に読み、旅行記・小説・新聞記事などを通じて独自のアジア観を形成していた。長編と比べて軽視されがちなカフカの手紙や中短編に目を向けると、カフカが実は、全生涯にわたって「中国」「中国人」の像を自作中に描きつづけていたことが分かる。またS・ギルマンが『ユダヤ人の身体』(1991、邦訳:青土社1997)等で明らかにしたように、当時の西洋社会では、黄禍論や反ユダヤ主義の言説において、性的他者としてのユダヤ人=東洋人のイメージが流布していた。カフカにとって「中国人」とは、「ユダヤ人」としての自己イメージを仮託するのが容易な表象だったのである。ちなみに「カフカと中国」は、古くはベンヤミンやカネッティ、1980年代には東アジア系の研究者が好んで取り上げたテーマであった。ただ、そこではカフカの人と作品の「東洋的」な本質を取り出そうとする傾向が支配的で、かつてサイードが『オリエンタリズム』(1978、邦訳:平凡社1986)で提起した、「東」は西において言説として構築されてきたものだという視座は欠如していた。この点は、1990年代以降に活発化したポストコロニアル研究の立場からすると、批判が集まるはずの点であろう。本書では以上の流れを受け、西洋社会に生きたカフカがどのように「東」を構築したかという点に議論の焦点を合わせる。

なお、本書は2005年に京都大学大学院文学研究科(ドイツ語学ドイツ文学専修)に提出した学位申請論文「カフカ文学の中国・中国人像」(http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007802313/jpn)に加筆修正したものである。財団法人ドイツ語学文学振興会2009年度刊行助成により出版。



目次

●『カフカの〈中国〉と同時代言説――黄禍・ユダヤ人・男性同盟』詳細目次

序章 漢詩を読むカフカ①
― フェリーツェへの手紙に見る中国人モチーフ ―
1.袁枚の『寒夜』――ハイルマン詩集より
2.ヨーロッパが見た中国――オリエンタリズムと女性嫌悪
3.カフカは「中国人」だった――研究史の視点
4.ユダヤ人と中国人

第一章 ドイツ語圏の黄禍論に表れた「男性の危機」
1.黄禍の図
2.「情けは無用、皆殺し」――ヴィルヘルム二世の黄禍論
3.オイレンブルク事件――ドイツ宮廷の同性愛スキャンダル
 4.カール・クラウスの『万里の長城』
5.混淆の不安――エーレンフェルスの黄禍論と「男性解放」論

第二章 漢詩を読むカフカ②
― 『ある闘いの記録』に姿をとどめた中国詩人たち―
1.「藪の中から裸の男たちが…」
2.男だけの世界
3.ハイルマン詩集の中国文化紹介――帝国主義批判と「詩人同盟」の図
4.李白の『江上吟』と「太った男」
5.杜甫の『渼陂行』と「祈る男」

第三章 『流刑地』のオリエンタリズム
― 植民地主義批判とシオニズムのあいだで ―
1.流刑地論争
2.ポストコロニアルなカフカ?
3.アナーキズムと女性嫌悪――思想家ミルボー
4.ミルボーの『責苦の庭』――オリエンタリズムと植民地主義批判
5.「男同士の絆」から「女性の抹消」へ
6.シオニズムの入口で

第四章 「こいつは途方もない偽善者だ」
― 中国学者ブーバーと中国人学者カフカ ―
1.マリーエンバートの中国人
2.父の視線――『中国人学者』と『判決』
3.中国服を着た息子
4.ブーバーの『タオの教え』――体験の伝達(不)可能性をめぐって
5.カフカのブーバー受容①「老子」対「荘子」

第五章 『万里の長城』とシオニズム①
― 「分割工事」方式で築く民族共同体 ―
1.「民族の輪舞」!
2.シオニズムの隠喩
3.カフカのブーバー受容②文化シオニズムの方向転換――宗教性から「労働」へ
4.ブーバーの宗教思想と「バベルの塔」
5.ランダウアーの無政府主義と「分割工事」
6.農耕民と遊牧民

第六章 『万里の長城』とシオニズム②
―シオニストの「労働」像に占める「男性」の位置―
1.結婚とシオニズム
2.シオニズム寓話としての『カルダ鉄道』
3.ユダヤ民族ホーム――シオニズムの「核心の問題」
4.荒野の男性同盟
5.『無産労働者団』とパレスチナ移住の夢

第七章 東方からの使者
―カフカが見たロシアとロシア革命―
1.「隣の州の反乱」――ロシア革命の影
2.女人禁制のロシア
3.「現在」に生きる――革命家ゲルツェンの回想録
4.新聞読者カフカ――古いメディア、新しい価値観
5.抹消される「現在」

終章 異郷の女ミレナ
― 晩年の中国物語と異民族「通婚」問題 ―
1.ミレナとの恋とロシア共産党礼賛(?)
2.共産党員とシオニスト
3.『拒絶』とゲルツェン回想録――「革命思想」の射程
4.『掟の問題』とラッセル論文――新しい「貴族」
5.『徴兵』に描かれた「通婚」の挫折
6.おわりに

あとがき
図版出典一覧
註・参考文献
索引

カフカの〈中国〉と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟

カフカの〈中国〉と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟

  • 作者: 川島 隆
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2010/04
  • メディア: 単行本



カフカの〈中国〉と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟


カフカの〈中国〉と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟


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カフカの〈中国〉と同時代言説



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「卵母セイレーン──誘惑する女たちの深層」 [本の紹介]

田中純「卵母セイレーン──誘惑する女たちの深層」、『UP』449号(2010年3月号)、東京大学出版会、2010年、40〜47頁。

本タイトル1 ユーピー
  UP
巻次 第39巻3号通巻449号(2010年3月1日号)
著者名 トウキヨウダイガクシユツパンカイ
  東京大学出版会
出版者 トウキヨウダイガクシユツパンカイ
東京大学出版会

http://www.utp.or.jp/topics/up/

『グーテンベルクからグーグルへ : 文学テキストのデジタル化と編集文献学』 [本の紹介]


グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学

グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学

  • 作者: ピーター シリングスバーグ
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2009/09/25
  • メディア: 単行本




『グーテンベルクからグーグルへ : 文学テキストのデジタル化と編集文献学』
デジタルの「本」の氾濫は、文学研究の制度、ひいては人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける。

"Google ショック"の本質を衝く必読書!
▼「グーグルブック検索」 の衝撃とそれに伴う議論の沸騰においても見落とされている議題(文学テキストのデジタル化の問題点と可能性、テキストをめぐるコミュニケーションの変容)について、本質的な議論を展開。From
Gutenberg to Google: Electronic Representations of Literary Texts,
Cambridge University Press, 2006. の翻訳。
▼ 文学研究は何に基づいて行われるのか。モノとしての本か、あるいは情報としてのテキストか。人文学の研究はそもそも何を資料としてきたのか。また、今後は何を資料としていくのか。デジタルの「本」の氾濫は、文学研究の制度、ひいては、人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける。「グーグルブック検索」の問題は、たんに作家や出版社といった供給者側の問題にとどまらない。それは
「本」をいかに読むのか、使うのかという読者、利用者、研究者の側の問題でもある。
▼文学、人文諸科学の制度のありようと直結する基盤の世界規模の変容を説き、人文科学の歴史と未来を見据えた本書の記述は 「デジタル化」
を考える際の必読書・基本書たりえる内容となっている。


From Gutenberg to Google : electronic representations of literary text
s / Peter L. Shillingsburg. -- (BA78873308)
http://peter.shillingsburg.net/
Cambridge, UK : Cambridge University Press, 2006
v, 216 p. ; 24 cm -- : hardback;: paperback
注記: Includes bibliographical references (p. 200-208) and index
ISBN: 0521864984(: hardback) ; 0521683475(: paperback)
著者標目: Shillingsburg, Peter L.
分類: LCC : Z286.E43 ; DC22 : 070.573
件名: Electronic publications ; Scholarly electronic publishing

■目次■


序 章

第1章 二一世紀における手稿、本、そしてテキスト

第2章 複雑性、耐久力、アクセス可能性、美、洗練、そして学術性

第3章 書記行為理論
    慣習――いった/いわない、意図した/理解した
    時間、空間、物質性
    モノとしてのテキスト
    意味の生成――書かれたこと、書かれていないこと、理解されたこと
    知識、不確かさ、そして無知
    書記行為理論の要素

第4章 書記行為を再現するための電子的インフラストラクチャー
  Ⅰ 電子ナリッジサイトのための概念空間
    村をあげての仕事
    業界標準とモジュール式構造
    材料、構造、能力
  Ⅱ 実践的な問題
    資金をどのように調達するのか?
    言語とソフトウェアによる解決策のいくつか
    新しいプロジェクトと遺産プロジェクト
    分 業
    編集上の問題――ケーススタディ
    編集版の構築
    遺産ファイルの変換
    品質向上
    二つの電子的解決策
    ウィリアム・サッカレー全集の事例
    ソフトウェアの実際的問題

第5章 ヴィクトリア朝小説――読みを形づくる形

第6章 電子テキストのじめじめした貯蔵室

第7章 編集文献学の競合する目的を調和させることについて

第8章 聖人崇拝、文化のエンジニアリング、モニュメントの構築、その他の学術版編集の機能
  Ⅰ 永遠に続く否定
  Ⅱ 無関心の中心
  Ⅲ 永遠に続く肯定

第9章 審美的な対象――「私たちの喜びの主題」

第10章 文学研究における無知

  註
  編集文献学の不可能性――訳者解説に代えて
  参考文献
  人名・作品名索引

シリングスバーグ,ピーター[シリングスバーグ,ピーター][Shillingsburg,Peter L.]
米国ロヨラ大学教授(英文学科)。2003年から2008年まで英国ド・モンフォール大学教授。2005年より同大学文献学センター(The
Center for Textual
Scholarship)長を務めた。学術版W.M.サッカレー全集編集責任者。サッカレーを中心とするヴィクトリア朝文学研究に関する著作がある


明星聖子[ミョウジョウキヨコ]
埼玉大学教養学部准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。著書に、『新しいカフカ―「編集」が変えるテクスト』(慶應義塾大学出版会、2002年)。同書にて日本独文学会賞受賞


大久保譲[オオクボユズル]
埼玉大学教養学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科中退


神崎正英[カンザキマサヒデ]
ゼノン・リミテッド・パートナーズ代表。京都大学文学部卒業。コロンビア大学でMBA取得(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


A5判/上製/374頁
初版年月日:2009/09/25
Cコード:C3036
税込価格:3,360円

タイトル グーテンベルクからグーグルへ : 文学テキストのデジタル化と編集文献学
責任表示 ピーター・シリングスバーグ著
責任表示 明星聖子,大久保譲,神崎正英訳
出版地 東京
出版者 慶応義塾大学出版会∥ケイオウギジュクダイガクシュッパンカイ
出版年 2009.9
形態 340,13p ; 22cm
注記 原タイトル: From Gutenberg to Google.
注記 文献あり 索引あり
ISBN 978-4-7664-1671-8
入手条件・定価 3200円
NS-MARC番号 103072500
個人著者標目 Shillingsburg,Peter L.∥シリングスバーグ,ピーター・L.
個人著者標目 明星/聖子∥ミョウジョウ,キヨコ
個人著者標目 大久保/譲∥オオクボ,ユズル
個人著者標目 神崎/正英∥カンザキ,マサヒデ
非統制件名 書誌学∥ショシガク
非統制件名 編集∥ヘンシュウ
NDC(9) 020
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000010580737


■内容紹介■(出典:人文書院HP 福島聡氏のコラム「本屋とコンピュータ」87回)
英文学研究者であり学術版全集の編集に携わるピーター・シリングスバーグの『グーテンベルクからグーグルへ』(慶應義塾大学出版会
2009)を読むと、多くの異本を照合し、テキストを確定して「定本」をつくる作業がいかに大変で困難なものであるかを思い知らされる。

筆写時の間違いはさまざまな写本のコンテンツに多様性(バラエティ)を与えたであろうし、活版印刷が始まった後でも版による違いや異本の存在は珍しいことではない。「正確」に伝達すべき「オリジナル」がどの時点のものかを確定することは、容易なことではない。

" テキスト伝達をめぐる作業の大部分においては、そこに関わる人々(秘書や編集者や植字職人)は、まずテキストを解釈し、何らかの形で理解しなければならない、そうすることによって初めて、製品化されるべき新しい形へ向けてテキストを再構成し、伝達することができるのだから。したがって、これは機械的なプロセスではなく、精神が関わっているのだ。だから製作にかかわる人々は、まず受容行為を行う読者として行動し、その後で新しい形を生成し創造する行為者となるわけだ。"(『グーテンベルクからグーグルへ』P102)

シリングスバークは、"現代では、テキストはさまざまな視点とさまざまな使用法に答えなければならないのだから、すべての目的について他のいかなるテキストよりも重要であると主張しうるテキストなど、本質的には存在しない。したがって、最終的な(ゴール)テキストとして全員が納得できるような、唯一の版としてのテキストもない。"(P109)と言い切る。自ら学術版全集の編集に情熱を以て取り組んできたにもかかわらず…、否だからこそと言うべきかもしれない。

それでも、いかに困難が伴おうと、或いは困難が大きければ大きいほど、「定本」というテキストの形態(メディア)は、固く揺るぎないテキストの乗り物(ヴィーグル)としての冊子体(=印刷本)に相応しいと考えられる。原理的に容易に変更可能なディスプレイ上の文字と違って印刷された文字の変更・改竄が困難な冊子体にこそ、コンテンツにカノン(典拠)性が宿ると思われるからだ。実際、「定本○○○○全集」という(願わくば函入りの)本たちが書棚に整然と並んでいる風景は、まさに冊子体の面目躍如、とも言える。

ところが、事はそのように単純ではない。

テキストは、さまざまなコンテキストに囲まれてある。一つのテキストは他の多くのテキストの影響を受けている。さらに、参考文献や註に挙げられる多くのエクリチュールだけでなく、時代背景をはじめ、書かれた時の状況もまた、すべてコンテキストなのだ。

" 読者がテキストに向いあって、それを「理解する」あるいは解釈するプロセスには、コンテキストを想定する作業が含まれている。そうしたコンテキストは、ふつうはテキストに含まれていないが、そこから推測可能なあるいはそれに帰属させることができるものである。歴史の知識が豊富な読者であれば、その読者が想定した「いわれていないこと」が、テキストの産出者によって巧みにいわれないですまされたことと同じ、あるいは非常に似ているという可能性が高い。" (P97)

そうした読書を援けるためには、「定本」は、さまざまなコンテキストにリンクが貼られた「ハイパーテキスト」でしかあり得ない。

シリングスバーグが"重要なのは、常に進歩し続ける電子的ツールを使うことによって、同じ基本的な材料から、異なる読者が異なるときに異なる要求を満たせるようになること"(P133)と言う所以である。

その上で、冊子体(=印刷本)の存在理由(レゾンデートル)とは、何だろうか?


■書評■[評者]仲俣 暁生 (文芸評論家)
電子化で文学はどうなるか

 グーグルが進める「電子図書館」構想に、世界中の作家や出版社が大きな懸念を抱いている。しかし、検索エンジンが書物文化を滅ぼすといった極論を別にすれば、グーグルの試みに対する出版界の不安は、著作権をめぐるものか、心情的な反発のいずれかである。

 他方、学術研究の世界にもグーグルの「電子図書館」構想は大きな問いを突きつけている。検索エンジンを備えた巨大な電子テキスト・アーカイブの出現は、かつて活版印刷がもたらした革命に等しい巨大な変化をもたらす。テキストの民主化が進む一方で、紙からデジタルへの過渡期には、さまざまな混乱が生じる。文学作品がネットワークで配信されるのが当然になったとき、文学研究には何が起こるのか。本書はこの問いに真正面から答えようとした。

 著者のシリングスバーグは、学術版サッカレー全集の編集責任者を務めたヴィクトリア朝文学の専門家。学術の世界では遠からず、紙に代わり電子テキストが主流になるという見通しのもと、「編集文献学」という新しい学問分野の知見を踏まえ、書物電子化の問題点を具体的に論じていく。

 電子テキストが一般化する時代には、文学研究における「テキスト」を決定していく作業が、紙の本や手稿が前提だった時代に比べ複雑になる。シリングスバーグは「書記行為理論」という独自の理論にもとづき、テキストが受容されるプロセスにおいて版(エディション)のもつ意味を重視する立場をとる。したがって学術用にふさわしい電子編集版は、特定の版に基づく単線的なテキスト・アーカイブではなく、過去に刊行されたあらゆる版についての付随情報をもつ「ナリッジサイト」であるべきだと説く。

 日本では商業的な「個人全集」が学術版の役割を兼ねてきた。書物電子化が進むなか、日本独自の「編集文献学」は困難だと語る訳者の後記も、重要な問題提起である。


--------------------

慶應大学出版会から、ビーター・シリンズバーグという見慣れない著者による『グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学』
という本が出ている。昨日の東京新聞に私も短い書評を寄せたが、朝日新聞にも小杉泰氏による、この本へのさらに長く適切な書評が載っている。

これは一般的な書物について論じた本ではなく、電子メディア時代の「学術編集版」、つまりアカデミックな研究のための文献となりうる版(エディション)について論じた本であり、その基礎となる学問体系として日本には馴染みのない「編集文献学」という分野があることが紹介される(ここでの編集は日本でいう「校訂」などに近いニュアンス)。

また、この学問分野においてシリンズバーグは独自の「書記行為理論」という考えを打ち出しており、このふたつの新しい概念を前提に議論が進むため、一般的な意味での「インターネット時代に本はどうなる?」という関心に応えてくれるわけではない。また、以前に邦訳も出たスヴェン・バーカーツの『グーテンベルクへの挽歌』のような、保守主義者による後ろ向きな本ではない。むしろその逆である。

シリンズバーグは、少なくとも「学術編集版」においては、近い将来に紙の本から電子テキストへの移行が必至と考えており、それゆえに、「電子テキスト時代の学術編集版はいかにあるべきか」をつきつめて考えていく。サッカレーの専門家として、過去のさまざまなエディションにみられる混乱を知り尽くしているシリンズバーグは、プロジェクト・グーテンベルクのようなテキスト・アーカイブではダメで、異なる全てのバージョンを網羅した「ナリッジサイト」であるべきだと主張している。

日本の青空文庫も含め、「読書」のためのテキスト・アーカイブはいくらでもあるが、文学研究に本格的に役立つそれは、日本にはまだそれほどたくさんはないだろう。書誌学や文献学には、これまでほとんど関心がなかったが、直木賞をとった『鷺と雪』に至るベッキーさん三部作があまりに素晴らしく、十数年ぶりに北村薫の作品をまとめて再読しており、芥川龍之介の短編をめぐる書誌学ミステリー『六の宮の姫君』を読み返して感激したばかりだったので、私もなんとかシリンズバーグの議論に頭がついていけた。

この本で紹介されているものの一つに、ダンテ・ガブリエル・ロセッティのアーカイブがある(ちなみにブラウザはIE以外を使うことが推奨されている。IEだと表示ができないコンテンツがある。Firefox、SafariはOK)。

最近では「漱石財団」の創設と解散をめぐる話題があったが、本来なら財団の前に、きちんとした「漱石アーカイブ」があってしかるべきだろう。青空文庫から個別の作家ごとの詳細な文献サイトを、たとえば「芥川龍之介アーカイブ」「坂口安吾アーカイブ」のように独立させていって、そこに国文学や近代文学研究者の論文がリンクされているような構図ができると、一般の読者も関心を寄せるのではないか。「電子テキスト」をめぐる議論のレベルがいつまでも向上しないのは、現実にネット上にある日本語文献の量が、あまりにも足りないことにも起因していると思う。

もうひとつ、この本の読みどころは、訳者の一人である明星聖子氏の「苦悩」である。下記のサイトに、明星氏による短いエッセイが寄せられており、その「苦悩」の一端が語られている(『グーテンベルクからグーグルへ』のあとがきで書かれている内容はもっと壮絶なので、そこだけでも必読である。)

彼女は本書を「悲しい予言の書」と表現しているが、シリンズバーグによる本文にはそうした悲痛なトーンは皆無であり、著者と訳者の間にあるこの大きなギャップこそが、本書の本当の主題である。

yomoyomoさんのブログで、この本のサポートページもできていることを知る。この本に対する日本側の「返答」が、理論としても実践としても待たれるところじゃないだろうか。

(【海難記】Wrecked on the Sea からの転載)

■書評■高橋文樹さん
http://takahashifumiki.com/literature/reading/738/

■書評■橋本大也さん
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1107.html
■書評■[評者]小杉泰(京都大学教授・現代イスラーム世界論)


電子本の登場が人文学を変える

 500年前にグーテンベルクの活版印刷が世に出て、本の世界は劇的に変わった。それまでの手書きの写本は、多量の部数を発行できる印刷本に取って代わられた。それと同じくらいの巨大な変化が今起きつつある。

 新しい書物の形態を「電子本」と呼ぶならば、それとの比較でこれまでの本は「印刷本」と呼ばれるようになるであろう、と著者は言う。電子本の登場は、文献を扱う人文学を根底から変えつつある。

 著者は近代英文学、特にビクトリア朝文学の専門家として、19世紀の小説のテキストを批判的に考証してきた。その成果を紙に印刷された本の形で出版する場合、どうしても限界が生じる。

 作家の手稿や、初版・再版、ペーパーバック版などの種々の版、同時代的な資料などから、学問的に厳密な考察をおこなっても、そのすべてを書物に入れることはできない。それに対して、デジタル化され、インターネットで読む「本」ならば、いくらでもテキストや資料を収録し、相互参照することができる。

 早くも70年代から文学テキストのコンピューター化に取り組んできた著者は、インターネット時代に入って、そのようなデータベースとしての電子本を提唱している。

 副題にある「編集文献学」とは欧米で発達した学問で、テキストを比較・考証し、作品の意味づけをおこなう。特に著者は、作品の著者と読者のみならず、その途中にある印刷・編集の工程をも含めて「書記行為」と呼んで、著述と読書にまつわる興味深い議論を展開している。

 学問的な考証と編集ですら「介入」であり、解釈行為であるという主張は明晰(めいせき)でわかりやすい。それによれば、もはやテキストの「標準版」を作ろうとする時代ではない。だからこそ、刊行日とモノとしての形態に縛られている印刷本ではなく、限りなく更新できる電子本がよい、というのである。

 ちなみに、編集文献学者による折衷的な判断をよしとする英米の態度は、著者の手稿が存在しないシェークスピア以来の伝統を反映している。それに対して、自作の出版に深く関与したゲーテを源流とするドイツでは、より権威を持つ編集を志向するという。ドイツの植字工の方が几帳面(きちょうめん)だったであろうという指摘も含めて、両者の比較が面白い。

 デジタル時代を象徴するグーグルでは、瞬時に目的のテキストにたどり着ける。しかし、その検索ランキングは人気順にすぎないし、情報の99・9%は学問的に信頼がおけない、と著者は言う。学術版編集による質の高いテキストの供給を、自分たちの責務とするゆえんである。

 現在のところ電子書籍の多くは印刷本のデジタル化にすぎないが、電子本が「本」の主流となる日は意外に近いかもしれない。人文系の学問と知の体系が、著者のように前向きにこの変化に対応するためには、課題は複雑で考えるべきことは多い。


■書評■[評者]

英文学研究者であり学術版全集の編集
に携わる著者は、「電子メディアがテキ
ストの性質を変えた」ことを痛感する。
そもそも書物とは、著者の手稿からは
じまる一連の「書記行為」の産物である。
それに関わる人々(秘書や編集者や植
字職人)の手を経ながら、テキストは
さまざまなコンテキストの中を動いて
いく。コンテキストは、エクリチュー
ル(書かれたもの=異本、異なる版など)
に限らない。書かれた時の、そして読
まれる時の歴史状況をまたコンテキス
トなのだ。
電子メディアの誕生、そしてハイパー
テキストという概念(アイデア)が、さまざまなコン
テキストとのリンクを可能にし、文学作
品を読むという行為を援け、或いはその
一部となっていく。そうしたリンクが不
可欠だとすれば、著者が想定するよう
に、これからの学術版全集は電子テキス
トでしかありえないかもしれない。
だが一方、書物は、〝単純だがしっか
りしたテキストを望む一般読者と、テ
キストの来歴のすべてを必要とする少
数の学者族の、相反する要求に応えよ
うと〞苦闘してきたのだ。〝重要なのは、
常に進歩し続ける電子的ツールを使う
ことによって、同じ基本的な材料から、
異なる読者が異なるときに異なる要求
を満たせるようになること〞と、著者
も言う。
だとすれば、「脚注や、巻末註、付録、
コメンタリ、索引」という「創意工夫」
を生み、〝コンパクトな形態やリニアな
性質は保ちつつも、ランダムアクセスを
可能にした〞印刷本=冊子体もまた、「一
般読者」の要求に応える形
メディア態として、未だ有効性を失ってはいないだろう。

■『グーテンベルクからグーグルへ』訳者インタビュー(上)■
----------------------------------------------------------------------
ピーター・シリンスバーグ著。九月に慶応大学出版会から出されたこの本、編集文献学という聞き慣れない分野について紹介すると共に、テキストのデジタル化が人文学研究に与える影響を考察している。

なんて書くと難解そうだが、一般読者もターゲットにした書き方で、ピーター・ドラッカーの本を読める人なら読みこなせるくらいのわかりやすさを備えている。本好きの人、あるいは編集者や著者なる人種の方なら、「編集という名の森」copyright朝日山wの探索を楽しめる...全く読んだことはないのだけど、編集文献学の入門書としても優れているはずである。

内容は著者・編集者・読者の関係が、デジタルテキスト化によってどう変わるのか?だと思われる。

思われるというのは、恥を忍んで書くと、実はこの本まだ二章までしか読んでない状況で拙文を書いているからだ。個人的な事情でメルマガ発行までに通読する余裕がない。通読してもいないのに書評は書けない。

それで訳者の明星聖子先生へのインタビューの形式を取り、通読しつつ質問をぶつけるという、先生には大変不躾なやりかたでの協力をお願いせざるを得なくなった。それでもおつきあい下さる先生のご厚情に感謝いたします。

【質問1】
もともとカフカの研究をされていた先生が編集文献学に向かわれたのは、ドイツで出された3種類のカフカ全集、特に「批判版カフカ全集」に触れたところがきっかけですね。

全集とは、カフカとか、特定のテーマのテキストを全て網羅している「データベース」だと思っている人が多いと思います。全てを網羅しているなら全集はみんな一緒だろ?みたいな理解です。ドイツで出た3種類の全集が「編集」によってどのような違いを見せたのでしょうか?

【回答1】
カフカの編集について考える際、もっともポイントとなるのは、現在彼の作品として理解されているもののほとんどは、没後に遺稿から出されたものだということです。よく知られている『審判』も『城』も、ようするに未完結、未公表の草稿です。彼の友人マックス・ブロートは、できるだけ多くの人にカフカに親しんでもらおうと、それらを読みやすく整えて、本にしました。

次の「批判版カフカ全集」は、カフカの名声が世界に十分広まったあとで、逆になるべく手を加えないで出そうという意図で作られたものです。例えば、「狩人グラッフス」いう短編は、ブロート版ではまとまった「作品」らしい形を見せていますが、批判版では、ノートの上にいくつかの断片として書かれたままの、「作品」になる以前の姿が示されています。逆にいえば、ブロートは、それらの断片をつないで、タイトルも自らつけて、作品に仕立てたといえるわけです。

『審判』も『城』も、ご存じのように未完結であり、実際にはカフカによって確定的な長編小説らしい体裁が整えられているわけでありません。だから、ブロート版と批判版とでは、例えば「章」に関して、異なった分け方や順番を見せています。つまり、一歩踏み込んでいえば、その分け方や順番は、ブロートの、また批判版の編集者マルコム・ペィスリーの解釈の結果だということですね。

第3の全集は、こうした編集者の解釈による手入れをなるべく排除しようと、例えばそれの『審判』の巻は、セクションごとにばらばらの束で遺されている草稿の形を反映して、ばらの冊子をひとつの函に収める形で出版されています。すなわち、小説が一冊の本にまとめられていない、固定的な直線的順番がつけられていないわけで、それらのばらの冊子をどの順番で読むかは、読者の判断に委ねられているのです。また、それは、手書きの文字をきれいに活字化したテクストを付けるのさえ編集者による介入だという判断で、原稿を写真で出した「写真版」です。ほかにも大事な相違点はいくつかあるのですが、とりあえずここではこのあたりにさせてください。この説明で、ご質問の「違い」というのがご想像いただけましたでしょうか。

 ところで、ご質問のなかで全集を「全てを網羅している」ものと捉えていらっしゃるところが、気になったのですが・・・。というのも、「全て」というのは、おそろしく難しい言葉だからです。全てを網羅するというのは、現実には不可能であって、すでに、どの範囲を全てとみなすかという点で、編集者の解釈が入ります。

これは、フーコーもすでに「作品」概念とからめて指摘していることであって、ニーチェの作品を出版するというとき、ニーチェの手帳のなかの住所の記載や待ち合わせのメモは作品かという問題です。ここでもう一点加えさせていただけば、「批判版カフカ全集」と私が訳しているドイツ語は、じつは、
Kritische Kafka-Ausgabeというもので、そこには「全」の文字はありません。にもかかわらず、それに「全集」という言葉を使っているのは、それが表そうとする意味を日本語として成立させようとするとそうせざるをえないからです。それは、正直、私としては、苦しい、忸怩たるところです。翻訳とは、本当に難しい、決断力のいる仕事だと毎日痛感しています。

ちなみに、本書『グーテンベルクからグーグルへ』でそのありようを問題にしている学術編集版とは、日本語の全集とイコールではありません。どういえばいいのでしょう・・・言葉の位相がずれているのです。例えば、あるひとつの作品しか収めていない全集というのはありえませんが、あるひとつの作品の学術編集版というのはありえます。その意味では全集より小さい概念に見えるのですが、しかし、そのひとつの作品について、これまで歴史的に存在した諸版をできるかぎり網羅的に収めましょうという意味では、はるかに大きな概念です。本書で問題となっているのは、日本語でいうところの全集のデジタル化ではない、という点は、ここで強調させていただいたほうがいいかもしれません。

【質問2】
文学作品に限らず、「編集」によってテキストは読み手に与える影響が違ってくるわけですね。先生はテキストのデジタル化について危惧をお持ちですが、訳者あとがきには大きな可能性についても触れられています。
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/gtog/

カフカ研究はコンピューターとの付き合いを要求している。「調べれば調べるほど、カフカの遺稿からは、活字テキストとしての再現は到底不可能な、途方もない(自由)が読み取れた」からですが、カフカの「途方もない(自由)」について、カフカを読んだことのない人にもわかるようにご説明いただけますか?

【回答2】
まず、ご質問の後半の部分からお答えすると、これは質問1で最初に挙げたポイントとつながると思います。ようするに、カフカはなぜ自作を公表しなかったのか?
おそらく、それは、「完成」させられなかったからではないでしょうか。

ここでいう完成とは、社会的な意味での完成です。書籍として出そうと思うと、いろんなレベルで「整える」ことが必要なのはおわかりいただけると思います。ところが、カフカはそこができなかった・・・。例えば、先にふれた『審判』のばらばらな草稿の形態は、執筆自体各セクションごとにばらばらにおこなわれたことを示唆しています。それらを、社会に送りだそうとすると、本にするために、順番をつけてつないで、という作業をおこなわなければならないのですが、でもそれは、カフカ自身できなかったのではないか。

前に挙げた「狩人グラッフス」にしても、カフカ本人には、社会的にそれを「完成」と認知させる形に仕上げるのは、おそらく無理だったように思います。これはすでに拙著のカフカ論でいってしまっているのですが、それら、すなわちその「社会的」には未完成としてしか見えないカフカの書きものは、ある意味それはそれですでにおそろしいまでの完成形を示しているのではないかということです。

彼が書いていたのは、おそらく現実の形に収めるのがきわめて難しい何かだろうと思います。その彼独自の表現に向かうダイナミズムを、「自由」という言葉で表してしまっていいかどうか、じつはかなり迷ったのですが、論理の運びと紙数の都合から、何か一語でそこを乗り切らざるをえず、結局えいやっとその言葉を選んでしまったというのが、正直なところです。

ここでご質問の前半部分に戻れば、私が当初コンピュータに抱いていた期待というのは、紙の書籍には収まりきらなかったカフカのその途方もない表現を、それであれば、もしかしたら十全に再現し共有可能にしてくれるのかもしれないと思ったからです。

しかし、だんだんとわかってきたのは、デジタルメディアには紙メディアより自由な部分もあれば、ずっと制約の厳しい部分もあるということです。そもそも夢は夢というか・・・今から思えば私が再現したいと夢想していたことは、コンピュータがどうのというよりも、本来実現できないというか、原理的に現実への落とし込みを許容しえないものであったような気がします。

 ただ、本書が問題にしている編集についていえば、デジタルメディアは、うまくいけば、その特性を有効に発揮するでしょうね。欧米の編集文献学で議論されている文学研究の基盤としてのエディションの作成は、本書で伝えられているとおり、おそらく、どんどんそちらに流れていくように思います。

【質問3】
先生のカフカに対する見方を教えていただきましたが、ならば先生がそうした編集をされればいいのに、どうして危機感をお持ちなのでしょうか?上記リンク先の特別寄稿にある資料の信頼性の問題と絡めて言えば、研究を進めていくうちに資料の信頼性を判断するのも研究者の仕事だと思いますし、読者もそうあるべきではないでしょうか。またそうした判断能力のある方が編集を行うことに何ら問題はないと思うのですが。

【回答3】
ようするに、編集における「公」と「私」の問題です。私も、じつは、「編集」をしているといえるかもしれません。というのも、すでに流通してるカフカの草稿の画像を使って、それを「あとがき」でふれたソフトウェアに載せて、いろいろテキストデータを関連させたり、順番を変えてみたりと自分の研究用にごくごく小規模の「編集」を試しているからです。しかし、それはあくまで、私が個人的に「私的」におこなっていることです。

ここはたぶん、先の質問2とつながりますね。社会的に「資料」と呼ばれるものを作るのは、明らかに「公的」な編集です。そして、それは、けっして書きたいように書けばいい、編集したいようにすればいいというのではすまない、別次元の作業を伴います。

カフカが自分の「書くこと」と社会性との間で苦しんだように、正直、私も、その「公的」な領域に踏み出すのは、とてつもなく難しく、とうてい自分にできる仕事とは思えません(なんか、こういうとカフカと自分を一緒に考えているみたいで、ものすごく不遜な発言に聞こえるかもしれませんが・・・どういえばいいのか、ようするに、私もそっちのタイプの人間だということです)。

また、それ以外に、もっとそれこそ「社会的」な事実として、それはできないといえるとも思います。最初にカフカの3種類の全集の話が出ましたが、最初の編集者ブロートも、批判版の編集主幹のペィスリーも、ようするにカフカの遺稿の管理者です(ペィスリーは、1960年代から遺稿の大半が保管されているオックスフォード大学の教授です)。第3の写真版の編集者は遺稿管理者ではないのですが、写真版に関しては、じつは、一時その出版社とオックスフォード大の間で遺稿の利用許可をめぐってもめたという経緯があります。このあたり、これ以上あまり軽々しくふれたくない部分なのですが、学術版編集というのは、やりたければできるという話でもないように思います。

 ご質問の1 でも申し上げたように、本書で問題となっている編集とはあくまで学術版の編集です。本書でシリングスバーグが主張しているナリッジサイトの必要性は、その「公的」な編集をめぐる理論的な考察から生じています。ここでもうひとつ大事な点を強調しておけば、学術版編集というのは、理論を必要とする概念だという点です。なぜなら、理論のないところでは、結局のところ、それは本当の意味での「公的」な活動にはなりえないからです。

■『グーテンベルクからグーグルへ』訳者インタビュー(下)■
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先月の続き。今回の質問は、回答をごらんになれば一目瞭然。訳者の明星先生を相当に困惑させたようである。実は、なんとなく、そうなるだろうなと思っていた。

明星先生は、正統派の研究者。こちらは、専門外の素人である。しかも自分が研究者に向かないタイプの人間であることは、自分が一番よく知っている。だからバッサリやられるだろうなと思っていたのだが、先生の優しさが伺えるインタビューとなった。しかし、それでもジタバタする朝日山は思うのである。たぶん、見ているところは同じだろうと。

質問6で、先生はこの本を読んで編集文献学をやる人が出てくることに疑問を持っているように書いておられる。しかし実際は一人でもいい、この分野を開拓していく日本の研究者に出てきて欲しいと思っておられるのではないか。それはひょっとしたら絶望的な願望かもしれない。しかし、絶望的な願望を持ついえば、こちらも同じ。

一冊でもよい本が売れて、本の世界が豊かに発展して欲しい。本が売れないといわれる時代、そんな絶望的な願望をいだいてメルマガを作っている私としては、そう思わないとメルマガなんかやってやってられんというのが本心だったりしますw

ということで、インタビューの続きです。

【質問4】
「ナレッジサイト」というキーワードが出てきました。ナレッジサイトとは、たとえばカフカならカフカに関する学術的な情報がすべて収集、整理されているホームページのことを差しますが、実際に構築するとなると大変な困難が伴います。作家自身が行った書き換えの検証から植字工の仕事ぶり、ドイツと米英の文化の違いから誤
読に至るまで、シリンスバーグはありとあ らゆる観点からあるべき サイトについて理論的な考察を行っています。

その道は日本の研究者にとって「矛盾に充ち満ちた、苦しい、徒労感の大きなものになる」と先生は予測されています。そうなる理由は、仕事の困難さもさることながら、編集文献学は「決して日本のものとはなりえない」からですね。文学も含む文化とは、本質的に独自のものなのに、学術研究が「一点(真実)という目的を目指す構築的な制度」であるがゆえに、独自性を捨て、世界標準に合わせざるを得なくなる。

しかし、私はそうなのかという疑問も捨てきれないでいます。たとえば、自動車を挙げてみると、自動車を作ったのは欧州で日本は何十年も遅れて後追いしていったわけです。ところがハイブリッドカーなど現在世界の自動車業界をリードしているのは、日本の自動車メーカーでしょう。世界標準は日本だといっていいと思います。欧米メーカーは、もちろん世界標準に合わせようともしていますが、彼らは独自性を失っているでしょうか。

シリンスバーグの主張を読んでいくと、確かにナレッジサイト作りは困難な仕事には違いない。しかし言っていることは学術的に至極全うなことで、言うなれば自動車の設計とか組み立て方などの基本について言っているだけのように思えるのです。そうした基本で後追いしつつも、欧米メーカーは彼らの文化を色濃く残した自動車を
今も作っ ています。そして日本車同様、世界中で売られています。

編集文献学は、今回先生が紹介されたのが日本でのスタートとなるでしょう。先生や私が生きているうちは無理かもしれませんが、将来日本が編集文献学の分野で世界標準になる。あるいは世界標準のルールを守りつつも独自文化を主張していくことは、自動車作りなどよりもはるかに難しいことなのでしょうか。言い換えると日本と欧米の間には、100年経っても追いつけないような格差が、すでにあるのでしょうか。

【回答4】
ご質問にお答えする前に・・・すみません、ひとつ確認しておきたいことがあります。というのは、先月のご質問もすべてそうだったのですが、今回のこのご質問も、本書の本文についてのものというよりも、むしろ、私の拙い「あとがき」をめぐってですよね。(ちなみに、本文のほうでは、「カフカ」という語は一度もでてきません。)

なぜ、そうなのか・・・私としては、むしろ、このことのほうをまず考えてしまいます。もちろん、これらの質問が、「訳者」に宛てているという形式から、私への配慮として、「あとがき」を取り上げてくださっているという点は、理解しています。また、このようにあの「あとがき」を重視してくれていること自体を、評価の表れと受け止めて、感謝しております。

ただ・・・なんというか、私が先月来、このようにメールでのインタービューを受けて、期せずして確認できているのは、なるほど、やはり構造的な問題だったのか、という点なのです。おそらく、本書の著者が本文で提起している問題を理解したとしても、いや、理解すればするほど、日本で読む私たちには、「で、どうすればいいのか」「私たちは何をするべきか」という別次元の問題がのこされているといっていいのでしょう。

だから、その問題の存在を指摘した私の「あとがき」に、大変ありがたいことに、このように着目してくださる・・・。ただ、注意していただきたいのは、それはたしかに、世界における標準に関わる問題であるかもしれませんが、ヘゲモニーをどこが握るかといったこととはレベルが異なっているように思います。これは、私の書き方が誤解を呼んだのかもしれませんね。どこの国がどうこうといった話ではないのです。(それから、こういうと語弊があるかもしれませんが、はたして世界標準になることは「善」と言い切れるのでしょうか。)

「格差」という点に言及するとしたら、私はむしろ、国単位というよりも、言語のほうの問題であるように思います。つまり、「英語」の圧倒的な強さです。それから、自動車の事例との比較は、この場合、あまり適切ではないように思えるのですが・・・説明するのはとても大変なので、そこに立ち入るのは控えます。

もうひとつ最後に付け加えておけば、ご質問のなかで、シリングスバーグの主張を、「至極全う」とおっしゃってくださっているのですが・・・でも、はたして、私たちの立場で、本当にそう言い切れるのでしょうか。はたして、その「至極全う」で「基本」であるはずのことは、これまで日本でおこなわれてきたのでしょうか。もし、いまの問いの答えが否となるのであれば、それは何を意味するのか。誤解しないでほしいのですが、これはけっして批判を意図しているものではありません。申しあげたいのは、それほどこの問題を扱うのは難しいということ、細心の注意が必要だということです。


【質問5】
この本の言わんとするところは、本の帯にもあるように、文学テキストのデジタル化は文学研究、ひいては人文学研究の制度自体を根本から変えるだろうとすることにあるのは疑いないところだと思います。そうした時代に生きる人文学研究者は、これまでの研究者には必要なかった能力を求められるようになると思います。どんな能力が必要となるでしょうか。

【回答5】
 これも、ものすごく難しい問題です。本の帯には、たしかに「制度」に「揺さぶりをかける」とありますね・・・。しかし、はたして、揺さぶられた結果、本当に「変わる」のでしょうか。本書は、けっしてその変化の姿を具体的には描いていません。たくさんの予言は散りばめられていますが、結局、思考の枠組み自体は、現在の制度のなかにとどまっているように思います。

いったいどう変わっていくのか。私自身、これは模索中であり、これからさまざま形で考察や実践を繰り返すことになるだろうと思っています。だから、「これまでの研究者には必要なかった能力」とおっしゃられても、正直、答えに詰まってしまいます。こういうと驚かれるかもしれませんが、むしろ、私は、人文学を学ぶ者は、いつの時代も変わらず、人文学を学ぶ者らしい、誠実な真摯な探求心をもっていれば十分ではないか、いや、人文学とはそういう学問であってほしいと思っています。もしかしたら、これからの時代、もっともっとその真摯さが必要になって、私の直感では、人間という矛盾に満ちた存在を、寛容に忍耐強く理解し続けるその力だけが重要になっていくとすら思っています。


【質問6】
この本を読んで編集文献学をやろうとする人がいらっしゃると思い ます。そのような方にアドバイスをお願いします。

 なんだか・・・今回は、本当に答えに窮する質問ばかりですね(笑)。はたして、そのような方が現実にいらっしゃるのか、私にはよくわかりません。いずれにせよ、これも「あとがき」で書いたことですが、この編集文献学という一種のメタ学問は、シニアな学者、いいかえれば実績を積んだ年長の研究者によって支えられるものであるように思います。

逆にいえば、むしろ、若い研究者や学生には、このようなテクストを取り巻くフレームを考えることよりも、もっとテクストのなかにどっぷりと入り込んで、「意味」と格闘してほしいとすら、思っています。つまり、旧来の伝統的な人文学の学問のなかで、しっかりと修行を積んで足腰を鍛えてから、こういった「資料」とか「方法」とかに関わる境界領域的な学問に進むほうが、実りある豊かな成果につながるのではないか、というのが、実感として思うことです。あっ、これじゃ、あんまり、というかぜんぜん宣伝になってませんね(笑)

■『グーテンベルクからグーグルへ』訳者による特別寄稿■明星 聖子(埼玉大学教養学部准教授)

 これは悲しい予言の書です。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。著者シリングスバーグは明らかにそう語っています。
 いや、そんなことはありえない。仮想空間に浮かぶ幻影を相手にして、研究などできるはずがない。大半の方は、おそらくとっさにそう反論したくなることでしょう。
 でも、本当にそう言い切れるのでしょうか。例えば、目の前のディスプレイに、ある作家の小説の草稿画像が表示されているとします。同時に、机の上には、活字の本になったその小説の一頁が開かれている。では、研究者が研究のために活用するのは、いったいどちらでしょう。

 「オリジナルにあたれ」という言葉を、研究の場でよく耳にします。しかし、このオリジナルとは何でしょうか。例えば、いまの場合、よりオリジナルに近いのはどちらでしょう。編集者が介在して、活字コード化されて整えられた「作品」の載る実物の本でしょうか。それとも、作家の「書く」行為の生々しい痕跡である手書き草稿をそのまま再現したディスプレイ上の画像でしょうか。
 もちろん、いや「本物」のオリジナルと呼んでいいのは、そのどちらでもない、この世に唯一無二のモノとして存在する草稿の紙そのものだと主張することもできるでしょう。
 しかし、そこまでいってしまったとたん、文学研究という制度は一気に難しいところに押し込められてしまいます。はたして、そこまでの「本物」を対象にすることが、文学研究だったのでしょうか。

 資料の問題というのは、お気づきのとおり、学術研究の制度の根幹に関わります。どの資料であれば信頼がおけるのかという問題は、資料に基づいて論を組み立てていく研究そのものの信頼性に直結しているのです。そして、デジタルの時代における資料の信頼性の問題は、文学研究のみならず、いわゆる人文学の広い領域にあてはまります。
 少なくとも、私が属する文学研究の分野では、管見ではありますが、この種の議論はこれまであまり表立ってはおこなわれてきませんでした。いうなれば、そ
のあたりの了解は、あうんの呼吸で成り立ってきていました。

 あらゆる書物のデジタル化が進むなか、いやおうなく白日の下にさらされていくのは、おそらくその部分です。そして、それは情報テクノロジーの急速な発展が、いつしか無限ともいえる量の画像データを、生産、蓄積、流通可能にしたことと深く関係しています。たしかに、ディスプレイ上に浮かぶ画像は、リアルなモノとしての存在ではありませんが、しかし、リアルなモノとして存在する何かをきわめて忠実に再現しているものだとはいえるのです。
(最近大きな話題となっているグーグル・ブックサーチに関しても、それが画像データを提供しているという点はもっと着目されてしかるべきように思います。)
 この文章の最初で、私は「悲しい」という形容詞を使いました。これは、あくまで私の主観的な感慨を漏らした言葉であって、本書はけっして未来を悲観的に描いているものではありません。むしろ、非常に複雑で困難な課題に果敢に挑戦して、なんとか希望に満ちた明るい未来へ到達しようと呼びかけるものです。
 それが実現可能であるかどうかはともかくとして、私たちが、この複雑で困難な問題と、早晩直面しなければならないことは確実でしょう。それがいかに困難で複雑なものであるのか。いずれの取り組みも、まずはその認識から、スタートしていくべきように思います。本書はそれを十全に伝えています。
グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学

グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学

  • 作者: ピーター シリングスバーグ
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2009/09/25
  • メディア: 単行本



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